ストーリーの問題(別の可能性としての戦争)
ときどき、火垂るの墓や戦争に纏(まつ)わる本を読むことがある。
戦争作家が当時、戦争を肯定しておきながら、戦後は良くないと作品にする話を聞く。
なかには売るためにやっているのだ、という声もあるが、状況に左右され、流行にながされるのは、作家も庶民である証拠である。
それはともかく、思うことがある。
戦争作品なり戦争映画が、暗く最後は可哀想なシーンで終わるならまだしも、晴れやかに…あたかも、戦国武将が敵の首幾つ取ったか?と、自慢げに話すような作品なら、見る側も別な感化をされたのではないか?
戦争プロパガンダのようなものだ。
GHQなり、海外の目が国のヤンチャ共に目を光らせているうちはいい。
しかし、朝鮮戦争から海外はソッチを主軸に物事を進めなければならなかった。
いわば、監視の目の緩みである(資料による)。
それに加え、世間というのも捨てたものでは無かったのだろう。
戦後世代やその直後の世代が、戦争が総体的な体験ゆえ、あまり悪いことはしない方がいいという、ある種の抑止力が効いていた分には良かったのかもしれない。
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先の戦国武将のように戦争を語る…云々の話だが、戦争作品や戦争体験が武勇伝のように語られたものが多ければ、私も感化された気もする。
戦争は悲惨なもの、まるで自分は関係なく戦地に向かうのは知らない誰かだろうと、突き放した考えを持ったかもしれない。
情報を伝えるツールがSNSになり、ネガティブな物語(?)を知るのに要約で済ませるようになった、と聞く。
それでは、感覚的なものや息遣い、どう快・不快になっていくのかが、大きく抜け落ちる。
良い悪いだけの端的な決め方だけでは、やはりモノの見方のバランスが悪くなるだろう。
困ったことに大人も子供も忙しいときた。
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広島のサミットが原因で、はだしのゲンを遠ざける傾向や雰囲気があるという。
しかし、それは良くない。
資料館にも行ったというが、国の経営者は外交交渉や、その悪化した果てには、そのよう場合もある、と頭に入れないとならない。