ネット断食と自分の声
とりあえずで検索をかければ、誰がどこの誰それ…くらい分かるくらい、当たり前になった。
これは、プライバシーもヘチマもない。
プライバシーが無くなったというか。
デリカシーの問題でもあるのだが、ネットの良いところを与えて、野放しにされているようなものだ。
ゲーム脳とかの害が言われたが、列車の中を見れば、誰も彼もが、ネットに繋がり、容易に何かを楽しんだり、調べたり、内容はともかく「繋がり過剰」に見える。
内容はともかく…マズそうな予感はするのだけど、繋がり過剰になれば、繋がらない状態というフラストレーションが、たまらなくはない。
アルコール依存症みたいだ。
海外で作品を産み出すアーティストは、情報断食をやる。
そうでもしないと、他人や、色んな情報に染まった物事に、自分が惑わされ、自分が分からなくなる。
アーティスト曰く:答えは自分が持っているはずだ!
ネットを漁れば答えが出てくる。
要領のいい若い子はAIに解答を書かせる。
如何に人間っぽく人工知能に書かせるか?に神経を使い、自分から産み出す作品やリズム、メロディを奏ない。
ある意味、アウトプットが他人のモノと要領だけになっている。
これでは、自分を無くすのは当たり前だと、思えなくない。
劇作家の偉い方が言っていたが、演出家の卵がテレビドラマの真似っ子をしており、多くは自分を出していない…と言った。
無論、自分勝手に見当違いなことを表現したり、自分の好みに固執したのを表現するのはマズイが、何処か本物でなくては、観る側も面白くなさそうだ。
如何に速くネットで、回答を導くか?などは、小学生でもやっているという。
大人世界が要領良くネットで解答を得る癖があるなら子供も、それを見習うだろう。
自分を無くし、何が本物か?真実か?と、叩きあっている感じがしなくない。
特にSNSなどでは。