勝ち負けでモノを言わない
消防団が減ったという。
もはや、インフラ的な労働もカタカタになっている兆しを感じる。
日本が売られるを読む前に、ルポ貧困大国アメリカを読んだ。
教育や医療、年金、低所得フードサービスなど、インフラの切り売りが見事に書かれている。
しかし、核は刑罰思想に酷似している。
学資ローンは、サラ金のようだし、金がなければ入学はできない、卒業後よい地位に付けないなど、最悪である。
また、仕方なく自己破産や、ローン加算など、滞納などやれば、ブラックリストに載り、それが他企業にも回るというから、救いがない。
〇〇なら××というペナルティじみた刑罰は、嬴政(秦国)がやった。
しかし、それを今は国でなく大企業がやる。
頭のキレる連中が、国から大企業に移って、むごいことをやっているのが、いまの流れである(昔からそうかもしれないが)。
むしろ、国家が動かされ、資本家の使いになっている所は、村上春樹の「海辺のカフカ」に描かれている、それとそっくりである。
「知事は資本家の手先である」
国家が権力を持っているのではなく、大企業の方が握っていると、考えた方がよい。
日本は敗者復活戦が難しいというが、当たり前であり、海外では以上の理由から、それ以上にペナルティて潰されている。
ある意味、人間が無意識に失敗を恐れる傾向が昨今つよい、というのも頷ける。
向いに感取じ取っているのだ。
ネットですら、コントロールじみたやり方が強く出ているのは、それがスタンダードになっているし、ある意味、操作的なやり方が許されているからでもある。
権力というか、上からの操作は、なにも国家の専売特許ではない。
さかんに、敗戦は国が悪いというが、それに似た暴力性や管理体制が、どこで現れるのか?を見ないと、間違いを起こしそうだ。