9月初めの雑記
新学科が始まる際、子供に行きたくなければ行かなくてもいい、という声掛けを最近聞く。
いいのか悪いのか分からないが、このデリケートな部分は大人になれば、克服されるだろうという、大人側の暗黙の了解があるようだ。
安易に行かなくてもいいというのは、何だかアレだ。
学校に行かないというのは、苦悩もあるが、ひとつの手段になっている。
学校以外の道を見つけられるなら良い。
大人も、なかなかそれ以外の道を与えられず結果、閉じこもりに延長させてしまう場合もあるだろう。
ひとつの手段と書いた。
言わば、世の中へ出てからの退却でもある。
心理士の中には、世の中に出て傷つかないことはない、と言い切るのもいるが、傷ついたなら…あるいは、疲れすぎたなら、一旦、身を引くというのはありだろう。
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海外から見たら喜多川尊師の作ってきた、いち文化の事情は海外からは奇特以上に見えるらしい。
しかし、それについては巷では、昔から噂はあったし、文春で問題になったこともある。
教訓というか、この国のしきたりというか、そこから導かれるものは「何らかを得るには泥水を通らなくてはならない」ことだ。
良い悪いにせよ。
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色んな手段を考えつく子(人間)の方が有利らしい。
禁止や押さえつけで育つと、発想が出なくなるようだ。
どこぞの地域に、子供は叱るな!というのかある。
異論があるだろうけど、自然と子供は生活で生きる技術を身につけるからだ、というものから、来ているらしい。
まぁ、その延長に、いまの奇妙な世の中の現象があるとしたら、そんな子育ての在り方も遠因していないとは言えない。
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少し前にフードコートで、ドイツ人らしきファミリーが飯を食べていた。
彼らに見られたのは夫婦どちらが強いとか、権力を持っているか?ではなく、スマートさが効いていて、羽目を外さない部分が見事だった。
もちろん、色んなドイツ人がいるだろう。
しかし、海外からの情報が、この国に入る時、都合の良い話しか入らないし聞かない。
大抵は、華やかで、フレンドリーかつ、発散系の外人が目につく広告がテレビや動画で現れるのだけだ。
先のドイツ人らは、2人も子供がいるのに、皆して騒がないし、彼らの音声も一定にセーブされていた。
フードコートであれ「公」についての教育が分かっているのだろう…そんな気がした。
やはり、あるがままというのは、人間良くないように思う。
ちなみに、中国では人間は、世の中や社会、世間をいうらしい。
人間を人だけに限定して見ないのは、視野の広さを感じる。