危機に萌えるというのは
日常では、よく分からないヤツが、非日常では活き活きすることがある、というのがある。
人間のポテンシャルは…発揮できる能力はどこにあるか分からない。
日常を営み、それを継続できる方が性に合うのがいれば、危機のときに、目が覚めたように、動き回るのがいる。
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危機に萌えるというの感覚は私にも良くわかる。
別に、ヒーロー気取りや、平和がいけないとか、暴力を肯定するものではない。
ある話によれば、危機に対して予備しながら結果、逆に危機に持ち込んでしまう、というのがある。
備えというか、防御がアダとなり、危険を招いてしまうのだ。
しかし、よくよく見てみれば、日常や平時であっても、落ち着きないのもいれば、どこかでスリルを求めて世の中を送っているのもいる。
養老さんなどは、脳化した世の中は、身体(=自然)が不要になるという。
身体のうちにあるワクワクやドキドキというのは、脳の範疇ではなく、自然である身体から出ているものかもしれない。
脳化、いわゆる効率化や合理化の部分だ。
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この非日常の方が強いとか、生きやすいというのは、特異能力かもしれない。
しかし、その分扱いにくく、日常では役に立たないどころか、置いておくだけで、大飯喰らいだったり、ハプニングを起こしたりするものでもある。
平時というのは日常…恒常性だ。
何事もなく、失敗せずに、きちんとできることが、良いとされる、見方を変えれば、工業化の時代の名残である。
いまは、脱工業化はされずに、どうも人工知能のように、さらに効率化が進んだように見える。
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逆に言えば、非日常を生きる、ソチラの方が強いというのは、どこかクリエイティブでなければならない。
危機は、決まったマニュアルを見て、どうするか?など、役に立たず、習慣やルーチンが適応できる状況では無い。
ホイジンガやカイヨウは仕事と人間、遊びなどを書いた。
そこで連想するのは、素人臭さである。
アマチュアや素人だからこそ、柔軟であったり、創造しながら、やらなければいけないことがある。
玄人は、いつも完璧なものを提示しなければならない。
製品だって、ちゃんとした物をださないといけない。
遊びがあるから、融通も失敗も効くところがあるし、なにより帰って来られるし、修復ややり直しが効く。
プロの神経症的にカリカリして、成功したのを作り出すのはルーチンや効率化、いつもの日常にも似ている。
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