学校、いじめ、会社とか
イジメが原因で学校に行かないというのが真実味を増してきた。
一時期、怠惰やサボりも原因とあったが、いまはもっと多様化しているように見える。
しかも、なかには不登校から何かの拍子で、裏の世界に行かなくてはいけないケースもあるようだ。
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四半世紀前から薄れてきた矯正や根性論的な、非行、不登校は、ある意味、意味があったのだろうか?
子供にありがちな、良くない方に向かうのを修正する機能が、あのスパルタ式の接し方、ヨットスクールなど、恐怖のシンボルとして、機能していたに違いない。
要は体罰や暴力が問題だ、とハッキリ機能していた。
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不思議なもので、暴力は否定や封じ込めをすると、どこかで代わりに噴出する傾向があるらしい。
「代わりに誰かがやらなくてはならない」という、村上春樹流な言い方になるが。
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しかし、不適応…適応障害など起こすとあっても、そんなとき周りは、タフを貫き「努力」などという、けったいな事をしながら生きているのか?
むかしの、皆に合わせろ!が、努力しろ!に形を変えているように、見えてならない。
不登校や出社拒否は、結果であるという心理士がいる。
その通りだと思う。
何割かの犠牲をリスクやコストとして勘定し、全体の売上げなり、生産を上げればいいのだから、学校の企業化である。
教育としての学校というより、生産の場としての教育、組織などと見た方がしっくり来る。
いくら、周りが改善しようとしても、感情論に振り回され、機能的、構造的な問題にまで目がいかないのが不思議である。
要は、システムの結果としての犠牲であろう。