表現することは下手でもいい
なるべく実害ない表現をしたい。
ある種の派閥には、表現の自由を盾にしながら、世の中を揺らすことをするらしいが、原始的な本能を感じさせる。
ヘイトが許されるならば、表現は暴力敵で稚拙かつ原始的と言えよう。
表現や芸術が、暴力を代理や昇華、代替の手段として、選ばれてきたのは上等するためだ。
文化というのは、芸術をもって暴力を封じて来た、とも言える。
ふたたび、暴力を出すという露骨さは、ある意味文化や文明の表現が、疎かになったり、表現方法の手段が少なくなっている、かもしれない。
もし、ものごとの善し悪しを計るとしたら、感性に尽きる。
感性の涵養だ。
単なる、理屈や強弱だけで物事を決めたり、表現したりすれば、頭だけの表現となり、そこから訴えてくるものは、響いてこない。
たとえ、下手糞なものでも聴いてないより、聴いていたりする方が、まだ音感がマシなのは、何がまずいか?を知る手段になる。
感性は良い悪いはもちろん、物事を洗練されたものを選ぶ、センスにも繋がる。
また、一流でなくとも、やらないより、やっていた方がよいのは、手段や内容を知っていたり、するからで、全く知らないとか、全くやらないより全然よい。
二流、三流はともかく、四流…n流でも、その分野をやっておけば、物事は「道」に通じる。
全くやらないで、物事を選ぶというのは、センスの涵養をしないで済ませてきた、とも言えよう。