逃げてもいいの?あんまり良くないです
あたかも、金魚を水槽の水に慣らすように、今までいた水から徐々に水槽に馴染ませてゆく。
9月も過ぎれば、登校ジレンマが無くなるか?というのも、大人の都合のいい妄想かもしれない。
行きたくない子に言う言葉であり、子供全体に投げる言葉では無い。
かなり雑な話になるが、教育機関ですら利権…ムラ社会である、という話がある。
いわば、大人の居場所であり、生活の糧である。
教育をネタにした食い扶持であり、子供に来て貰わなければ話にならないのだ。
いろんな、良いことあるよ系の話しを盛ってアピールする様は…いや、何か不祥事があればもみ消す様は、教育をやるよりも、ムラ集団を維持するための必要悪ではないか?と妄想してしまう。
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学校に行かなくていいとか、逃げていいとはいうが、やはり、その代わりは必要だろう。
いまや、不登校ですら一種の要領や、逃げ込んだ先の状況みたい(一時退却)に、捉えられ、悪いとは思われていない…感じがする。
代わりというか、別に何かに繋がっていた方がいいのはもちろん、できれば学校(会社)なしで生きていかれる要領なり、長期的なイメージは用意した方がいい。
というのも、それを考えない習慣になれば、長期的で現実的な思考が養われないからだ。
悪手をやる場合、好きなことをさせれば、何時かは回復するだろうという、楽観視である。
学校に行かない子が楽観視されたり、彼らは自立しているという判断はチト保留にしたい。
優良なアドバイスなしに居る人間が、なかなか何かを始められないように、何かに繋がりながら、自分を見つめる機会がなければ、動かないままだ。
いや、これは子供だけでなく、窮地や追い詰められた大人にも言えるだろう。
世の中に出るのはある種のリスクである。
出なければいいのだが、そういうわけにはいかない。
会社に行ってケンカした、したのはいいがそのダメージは?とか、その後の回復の見込みは?とか、余裕のあるうちにやらないと、やっぱりまずいのだ。
プラスよりマイナスのリスクが上回れば、その場で意地を張るより、現実適応を優先させるのだ。
学校や会社などは、その場しかない。
生活は家庭や自分の身体まで含み、その全体を見ながら、ものごとを決めなくてはならない。