私論ハラスメント論(ゆるい)
いじめはよくない。
良くないんだけど、ときどきされた方が悪いと大きい声で言うのがいるから問題になる。
要はやられるような格好や言動をしてるからいけない、という。
不思議なのは、ちゃんと見たり捌いてくれるのは子供までで、大人になれば、自分で解決しないといけないとか、仲良くやりなさいというのが、強く求められることがある。
調整力だ。
代わりに組織から抜け出すのも自由、負け犬として敗北を味わうのも自由…いや、結果としてそうなることがある。
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私は学校が嫌いだった。
組織と相性が悪かったというか、それでも世の中に出れば、組織しかないという現実があった。
自活したり、起業するにも、どうも外向性や自活能力やある種のパワーが必要と分かった。
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組織にいれば「ハラスメント(いじめ)をする方がいけない」というのが、クリアカットな言い方に感じる。
というのも要領としての「やられる」という演技はあるからだ。
ときに、それを使い利害関係や人間関係を調整したり、攻略したりというのがある。
手段としての「やられた」だ。
無論、それだって悪用や乱用もできる。
自分の利益になるなら、やられていた方が得というのも、十分考えられることだ。
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ツイッタ(現:エックス)などで、現職教官の方が、やる方が悪いと決めつけるように言っていたのが、恐ろしく聞こえた。
たとえていうなら、ガザを考えて見ればよい。
パレスチナと長い歴史のなかで、やった、やられたという、あのような複雑なことが起きている。
単にイスラエルがいけないといえば、伏流して来た歴史にあるナチスについても慎重に考えなくてはならなくなる。
部分的にいけない、それはやるものではない、という条件付きというのが、大事なところだろう。
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小学生も過ぎれば、早い子なら世の中の勘所が掴めているという。
要は、どのように立ち回れば得か?だ。
従って、あえて生きやすくするために、不利なやり方を選ぶこともある。
たとえ、傍から見たら良くなくても、それは有り得ることだ。
雑にいえば、主役を譲り、堅実な脇役や雑用を選ぶという生き方でもある。
学生がときどき、たくさんの子がいる中で、わざと目立たないように振舞っているというのもまた、生きやすさを選んだ結果なのかもしれない。
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