哲学的は不要?


内田さんなどは、時代が短期的見方をチョイスする流れを書いたが、仕事や学校もそうだろう。

量をこなせば、何とかなるみたいなモノが流行り、時間や空間、体力など、無いことにしながら、世の中が回っているようなものだ。

そんな中で哲学など不要だろう。

いや、昨今のイジメや事件を見ると、昔は良かったとは言えないが、人間の危険や暴力に対する敷居が、低くなっているように思う。

もう少しいえば、忌まわしいもの、好ましくないものが、陽の光の世界を堂々と歩くようなものだ。

忌まわしいものは隠すのも問題だから、人間なんだから予防的措置は必要だろう。

これを「なるべく〇〇しない」という。

たぶん、この感覚的なものが昔に比べ消滅したのか、やるかやらないか?の二者択一が、より強くなったように思う。

考える、哲学する、などは複雑だ。

短期的な成果を出したいなら、二者択一にして、効率を優先した方が、どれだけいいか?

たとえば、この複雑で優柔不断な態度があれば、教官が生徒のイジメに加担することは、なかったのではないか。

教育(仕事でも)が無機質になり、生身の人間を扱っているという感覚やイメージを欠いたなら、自制心どころか、敷居の低くなった世界では、忌まわしいことも、起こらない方がおかしい。

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