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薬王院のこと。 今さらながら。

プロローグ 高尾山にいった6月9日


高尾山は、ランニング仲間と練習にいく場所です。
その日(6/9)もみんな高尾山を走っていました。
私はというと・・・
ちょうど一週間前の土曜日(6/1)、モントレイル戸隠マウントトレイルっていうトレランのレースに参加していて(トレランレースデビューでした)、不本意にも大転倒!完走できなかったばかりか、いつまでも痛いので帰ってからレントゲンをとってみたら肋骨骨折がわかり。
ということで、走るのは無理(´;ω;`)。 痛いし、気持ちも落ちるし。。
でも、こういう時こそ、無性にみんなに会いたくて、みんなが走っている間、ゆるい観光客として高尾山を楽しみ、もどったみんなとビールと焼肉で合流するということにしました。
 
ということで、いつもとはちょっと違う高尾山。
いつもいく六号路とか稲荷山コースとかを行かず、リフトを使って登り、そのまま一号路を歩いて薬王院をゆっくりと楽しむことにしたのです。


参道です


 
さて。
高尾山といえば薬王院。
そこまではおそらく誰でも知っています。 はい、もちろん、私も。
なのだけれど、で、えっと、何宗? というか、そもそもお寺? だよね? などという申し訳ないレベル。
 
ゆっくり味わったあとは、ちょっとお勉強をすることに。
 


薬王院へ

基本のキ、薬王院はどういうお寺か?


正式には、高尾山薬王院有喜寺真言宗智山派三大本山のひとつです。智山派って何か?というとこれまた複雑でいろいろとビギナーには理解が難しいのだけれど、乱暴に言うと、空海を始祖とする真言宗から分かれた(改革しようとして結局分かれることになった?)もので、開祖は興教大師覚鑁上人(こうぎょうだいしかくばんしょうにん)(1095-1143)。総本山は京都(智積院)にあるけれど、関東に大本山がみっつあり、そのひとつが薬王院ということですね。
ちなみに関東大本山のあとの二つは何かというと、「成田山新勝寺」「川崎大師平間寺」。いずれも初詣風景が必ずテレビで映る有名どころですね。
とにかく、ハイキングの通り道、などといっては申し訳ない、お寺単体?としてビッグな存在なわけですね。(不謹慎な軽い言い方になってしまったことをお許しください。)

開山は天平の時代。


薬王院は、天平16年(744年)、聖武天皇の勅令により、東国鎮守の祈願寺として、高僧行基により開山されました。
聖武天皇といえば、歴史の教科書に出てきますね。仏教で国を護ろうという鎮護国家の思想の基に全国に国分寺建立をすすめた天皇ですね。薬王院も国分寺のひとつです。
そしてこの薬王院の名前は、ご本尊に薬師如来を奉ったことから来ています。(当時たてられた国分寺は、殆どが薬師如来を本尊としていたようです。)
 
ちなみにこの行基という僧は、布教しながら貧しい民に寄り添い、橋をかける、道を整備するなどの社会活動をしていた僧です。朝廷から度重なる弾圧を受けながらも、民衆の圧倒的な支持を受け、後になって聖武天皇より奈良の大仏建立の責任者として抜擢されるに至る、そういうお坊様です。
 
薬王院の話に戻ると、この行基が聖武天皇の命で建てたのは、繰り返しになりますが744年。
今でこそ真言宗のお寺ですが、開山時は南都六宗のうちの法相宗です。この時はまだ、日本で真言宗は興っていない、というか空海は生まれてもいませんよね。
 

薬王院の次のステージ。どちらかというとこれがスタート?

高尾山薬王院の公式ホームページには次のようにあります。

南北朝時代の永和年間(1375)には京都醍醐山より俊源大徳が入山し八千枚の護摩供養秘法の後、今のご本尊「飯縄大権現(いづなだいごんげん)」を奉祀し中興されました。

https://www.takaosan.or.jp/about/

ということで、俊源大徳(しゅんげんだいとく)は中興の祖と言われ、以来、ご本尊は飯縄大権現です。


ただ、こんな簡単な一段落では私は腑に落ちなかった。
私としては、ツッコミどころが満載なのです。

まず、中興。えっと、中興ということは一度廃れたわけ
醍醐山醍醐寺から来たって、遣わされたの?京都から?そもそもそれはどんなお寺なの?
八千枚の護摩供養秘法って、それ、どれだけすごいことなの?
ご本尊が飯縄大権現って?薬師如来はどうなるの?
 
ひとつひとつ私なりに整理しよう。(ごめんなさい、「私なりに」です。「私なりに」の含みは、いろんな資料みても難しかったり、それでいて私の知りたいことにはいきつけず・・・なので、沼にハマったあげく、このへんでけりをつけるという意味です。)

中興ということは?
そうです、廃れていたのです。時が経ち、律令国家の求心力も衰え、国分寺の維持も難しく、廃寺が出てくるようになる。薬王院もそのひとつ。さらにこんな山奥なのでひときわ訪れる人も少なく・・・・ということで、廃れていったのでした。
それを復活させたのが俊源大徳。開山から600年を経た南北朝のころでした。
 
醍醐山醍醐寺ってどんな寺?

醍醐寺は真言宗醍醐派の寺院。 基本のキのところにもどると、薬王院は真言宗の寺院ですもんね。で、この真言宗醍醐派というのは、弘法大師(空海)の孫弟子の理源大師(聖宝)が開山したのですが、山深い醍醐山頂上一帯は修験道の霊場としても発展しました。醍醐寺のウエブサイトでは、

醍醐寺は、密教寺院であるとともに修験道の寺でもあります。

https://www.daigoji.or.jp/about/doctrine.htm


と記されていました。
つまり、
醍醐寺は真言宗醍醐派の本山であると同時に、修験道当山派の本山でもあるのです。
 


そうすると、修験道って何?ってことになるのが沼。(密教という言葉の解説にも触れないといけないですがどんどん複雑になっていくのでそこは軽くスルーします。要は、密という字が示す通り、秘密、つまり非公開の教義や儀礼が(明文化されたマニュアルみたいなのでしゃなく)伝承によって伝えられていくくらいにさせてください。)

修験道とは? そもそも仏教なの?え?

修験道というのは、古来の自然信仰(山岳信仰)に仏教や道教が混ざり合って生まれた日本独特の宗教です。創始者は飛鳥時代の役小角(えんのぎょうじゃ。なんか聞いたことある気がする。)と言われていますが、広く信仰されるようになったのは平安時代以降から。なんでもはっきりさせたい私は、「山岳信仰や道教も混ざり合っているということで、厳密に言うと仏教ではないじゃないか」と言いたくなってしまうんですが、そういうものがしっかりと線引きできないのが日本の文化であり、歴史というもの。神仏混合の流れの中で、仏教に摂り込まれていったといっても不思議なことではありません。修験道のことを、仏教の一派と説明している仏教寺院のウェブサイトもありました。

たとえば、 一乗院というお寺のサイトでは、

『修験道とは、日本古来の「古神道」と「山岳信仰」、大陸より渡来した仏教の教えである「密教」が結びついて、平安末期に成立した仏教の一派です。』 『修験道は、密教の教えに基づき神仏習合の道として神仏いずれにもお仕えし〜』『実際に深山幽谷(しんざんゆうこく)に入って修行することで巨岩や大木から特別なパワーをいただき大自然に向き合うことで神秘的な力を得て、自他の救済を目指す』

https://ichijoin.or.jp/about-shugendo-shingonmikkyo/

などという記載があります。 
いろいろ複雑だなぁ、と思いながら、とにかく、真言宗のお寺が修験道のお寺でもあり・・・というのをこの説明で納得することにしました。

中興の祖 俊源大徳

話を高尾山に戻します
繰り返しになりますが、開山から600年ほどを経た1375年(南北朝の頃ですね)、京都は山科、醍醐山醍醐寺から俊源大徳(しゅんげんたいとく)という高層が入山します。俊源大徳は、滝行(琵琶滝ですね、6号路を通るとある)で身を清め、八千枚の護摩供養秘法の後、飯縄大権現を感得し、ご本尊として奉つり、薬王院を中興させたと。以来、薬王院のご本尊は飯縄大権現なのです。八千枚の護摩供養秘法などといわれても門外漢の私にはピンとこないけれど、ぶっちゃけていえば、「燃え盛る炎を前にした大変大変な行」ということです。とはいいながらももやもやのまま素通りできないので・・
 


【ちょっと細かい枝葉】

護摩供養秘法とは、密教で行われている代表的な儀式。護摩とは、サンスクリットの「ほーま」の音訳で、『お供物』や『いけにえ』を意味する。もともとはバラモン教に由来し、大乗仏教に摂り入れられたとのこと。護摩供養は、神仏の降臨を念じて、護摩木と言われる、願い事を書きつけた薪を延々と炊き続け、その炎や煙で、天上にいる仏に願いをつたえるというもの。

 
あと『感得した』・・・っていう言葉もなんか聞きなれないですよね。少なくとも私はスルー出来ず、いろいろと調べましたが、修行や祈りなどによって霊的な存在や力を感じ取ることをこう表現するようです。降りてきた、っていう感じでしょうか。(正解ではありません、私の解釈です。)
 
平安末期のころから広まりを呈していた修験道ですが、この高尾山は、その修行の地の様相も持つに至っていました。(そもそも始まりは山岳信仰ですものね。)。そうすると、真言密教と修験道双方の本山である醍醐寺から俊源大徳が遣わされ、滝行を行って…というのも、私として、すんなりと腑に落とすことが出来ました。中興の話、ここまで整理して、やっと納得することができるのでありました(笑)
要するに、真言宗って、修験道と結びついているということですね
そこが曖昧だったので私は釈然としていなかったんですね。
 
ここから話はどんどん神仏習合的になっていきます。

飯縄大権現と天狗様


さて今度は、俊源大徳が感得したという、飯縄大権現って、それは何者?という話です。
まず言葉の理解。 権現。 権現の『権』という字にはいくつかの意味があるのですが、そのひとつに、『仮の、臨時の』というような意味があります。そして『現』は、当然『現れる』ですよね。
権現というのは、仏教の仏や菩薩が、衆生救済のために仮の姿となって現れること、または現れた姿そのものを言います。どんな仮の姿かというと、。これは本地垂迹の考え方ですね。(本地垂迹というのは、神仏習合の考え方のひとつで、八百万の神々はもともとは仏が化身となって日本の地に現れたという解釈、それが権現です。)飯縄大権現はそんな権現の代表格のひとつ。信州長野の飯縄山(飯綱山)への山岳信仰が発祥とされていている神仏習合の神で、本地垂迹の考え方でいうと、不動明王(本地、つまり、『もともと』)の化身とされ、で、この不動明王は大日如来の化身であるという。本当にややこしい。でもとにかく、仏様であり同時に神様でもあるんですね。
 


この飯縄大権現の絵を探してみましょう。


飯縄大権現

多くの場合、このように白狐に乗った烏天狗の姿をしているます。
出てきました、天狗!! 高尾山といえば天狗ですよね。やっと出てきました。

これが飯縄大権現です。そして、両脇に天狗が二体いますよね。これが大天狗と小天狗。飯縄大権現の「おつき/お使い」(難しい言葉で眷属(けんぞくと読む)と言います。)高尾山といえば天狗さま。やっとつながりました。これで『なぜ?』などとうだうだ考え込んだりせずに、すがすがしく、『天狗焼き』などいただくことができるようになりました。

付け足しとまとめ


かくして高尾山薬王院は、薬師信仰とともに飯縄信仰の霊山ともなり、修験道場として隆盛を極めていくのでした。(高尾通信より)
 
さきほど、飯縄大権現は不動明王の化身だと書いたけれど、不動明王は、戦国武将の守護神として崇敬されました。高尾山の歴史をさらに追っていくと、上杉謙信、武田信玄、北条氏康などが登場し、さらに江戸になると今度は信仰が武士から庶民にうつっていき、・・・・・などさらに長くなるのですが、もうお腹いっぱいですよね。(私はお腹いっぱい) ここまでが整理できれば良しとします。

  • 開山は古く奈良時代。聖武天皇の命に寄る国分寺のひとつ。その時の本尊は薬師如来。だから名前も薬王院。

  • 真言密教と修験道の本山である醍醐寺から遣わされた俊源大徳による中興。そこから修験道のメッカ(こんな言い方あり?(笑))としての様相が強くなる。

  • 修験道は山岳宗教の流れを汲み、神仏習合の日本独自の信仰。だから本尊の飯縄大権現も神仏習合の神。神だけど仏でもある。

  • 天狗は飯縄大権現のお使い。だから高尾山といえば天狗様。

あと、お気づきの方がおられるかもしれませんが、基本のキで、真言宗智山派と言っておきながら、中興の祖は真言宗醍醐派です。
薬王院が真言宗智山派に名を連ねるようになったのは、後の世のオトナの事情。徳川幕府による、宗派整理(つまり、社寺に力を持たせすぎないようにという・・・)によるものだそうです。

エピローグ

そして最後に・・・・

飯縄大権現はもともと戸隠の飯綱山にいる神様。これは私としてはなんとも言いようのない因縁を感ぜずにはいられない。戸隠の飯綱山? 走ったではないか!? 転んだではないか!?

そもそも私は、なぜ薬王院についてこんなに調べる沼にハマったのかというと・・・

  1. モントレイル戸隠マウントトレイルレースを走った。飯綱山はコースの一部だった。だから名前も聞き覚えがあった

  2. そのレースで転倒して肋骨を骨折した。次の週、みんなが高尾山を走るのに、そんなこんなで走れず、はからずも、ゆっくり薬王院を見学することにした

  3. ふと疑問が浮かんで、薬王院のことを調べた。ら。飯縄大権現につきあたった。

もうこれはめぐりあわせとしか言いようがない。
そして誓ったのでありました。 来年また、戸隠トレイルに出ます。飯綱山を走ります。
 
そしていい加減肋骨も回復しているので、近いうちに高尾山の練習会に参加する予定。その時には、すっきりとした気分で天狗焼きなど食べたいと思います。
 
悪い癖で沼にハマりました。ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。



大天狗と小天狗


この時はまだ転倒してなくて(笑)


参考にしたのは以下です。



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