9/12 『高い城の男』を読んだ
何年か前にSF古典名作フェアをセルフ開催して、『ニューロマンサー』と一緒に購入。『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』にしなかったのはなんか……照れた。『星を継ぐもの』も一緒に買ってたし、なんかこう、ベタが過ぎるって気になってしまった。一個は変えないと。それで選んだのが本作であるが、これがうまく外せているのかどうかもわからん。
『ニューロマンサー』同様に、厳しい戦いになるだろう、心して臨まねば、と気合を入れて読み始めたが、意外と意外と、結構読める。これまで読んできた海外SFの中では、だいぶ上位に食い込む。もしも第二次大戦に日本とドイツが勝利してたらという、シンプルにして巨大なコンセプトゆえか。飛び抜けて高度なテクノロジーとかもなく(月や火星の開発などを行ってはいるが)、ひとつのifを下地にしつつも、描かれるのはあくまで市井の人々だから、その行動や心情などは理解できる。
ただ、そうすると今度は歴史方面の弱さが出てきて、第二次大戦期のドイツの軍人とか政治家とかは情けないことにサッパリだから、その辺の談義をしっかり理解できてたかというとかなり心許ない。いちおう作中に人名が出てきたら逐一検索して、史実の人なのか創作の人なのか、史実の人だけどパラレルな歴史を辿る本作においてはどのような人生を歩んでいるのか、調べながら見ていくだけ見ていった。なかなか面倒くさい作業だったがそれなりに効果はあったと思う。あとこういう、自分なりの登場人物表を作るのは嫌いじゃない……むしろ好き寄りだ。今後もやれそうな作品があったらどんどんやっていこう。
ドイツと日本が世界の覇権ツートップとなり、アメリカ人が経済格差のはるか下方に置かれながらも、白人の黄色人種への差別意識は燻ってて「ドイツ人のほうが優秀」と思ってるというのが面白かった。劣等感のオブラートに包まれた差別意識。力ある者だけが差別をするわけではなく、人はどんな状況からも人を差別できるという嫌な認識に襲われる。この人々の意識が、作中の反転した歴史ゆえの産物なのかっていったら当然そんなことは無く、いかなる世界いかなる歴史においても共通するものを描いていると感じる。ひとつの歴史的前提をひっくり返すことで何が反転し、何が変わらずあり続けるのか……しかし無学な今の自分ではそれを細かく見て取ることはできなかった。悔しさ。
最後の方で、”どこか別の世界では、たぶん様子がちがっているだろう。もっとましだろう。善と悪の選択の道がはっきりしているはずだ。こんな曖昧な灰色の混合物ではないはずだ。”と言われていたけど、これもまた果たしていかなるものか。作品が発表された1962年はいざ知らず、2024年ともなると。当時ははっきりしていたとしても、時が経てば経つほど、曖昧な灰色の混合物になっていくのではないか。
後半の、様々な人々の物語が収束していくところは、読めはするもののいまいちそれがどういうことなのか、どういうオチとなっているのかあんまりわからなかったのが口惜しい。ナチスは第三次大戦に向けて悪の帝国としての野望を推し進め、それに対抗すべくドイツ内の一派と日本は備えに入り、一方でチルダンはこれから生まれ得るアメリカの新たな可能性の種を播きはじめ、フリンクはその可能性を秘めながらまたこつこつと仕事に勤しみ、そしてジュリアナはifの世界を描き出す作家の命を危機から守る……ということかなあ? 田上氏は自衛の為とはいえ人の命を奪ってしまったことにひどく懊悩し憔悴して、一方ジュリアナはナチスの手先だったとはいえしばらく共に過ごした相手を咄嗟に殺してしまっても随分軽やかな気分だったりするのは、どういうことなんだと整理がつかない。
そしてタイトルにもなっている高い城の男、この世界にとってのifを書く作家アベンゼン氏も、物語のキーマンかと思いきやそうでもなさそうだったし、高い城にももう住んでいない。どころか本当のキーマンは『易経』で、なるほど作中のいろんな人物を導いてるし、『易経』がアベンゼン氏に本を書かせたみたいな、神林長平みたいな展開にさえなっていく(時系列的には因果が逆だが)。確かに面白そうだけども、『易経』。
そんなわけで前提知識は足らんし描写のニュアンスをちゃんと嗅ぎ取ったとも到底言えないものの、それでも面白く読んでいけたので、まだまだ海外SFに膝を屈さずに済むと思えた。つぎは『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』に挑んでもいいんじゃないだろうか。
最後に、お手製登場人物表を載せとこう。新しい趣味が始まった気がする。