XRの(ちょっと先の)未来
あの日確かに僕たちは時代の節目に立っていたのだ。もちろん当時の僕たちはたちはそのことに全く気が付くわけもなく、ちょっとずつ不便になっていく世の中を恨みながら、それでも楽しくやっていたし、引きこもりの生活も終わりが来て、就職するころには晴れて青い空の下、新調したスーツできれいなオフィスに通えるものだと思っていた。
2019年の冬ごろから爆発的に広がった新型コロナ。COVID-19。その強力な感染力と、次々と変異体を生み出すさまは、子供のころに観たバイオハザードを思い出させた。もちろん新型コロナウイルスに感染したところで、ゾンビになってしまうわけではないけれど。それでも感染してしまうと、味覚や嗅覚を失ってしまう後遺症に悩まされたり、基礎疾患がある人は、僕たち若い世代にくらべて死に至る可能性も十分にある。
2022年、ああ、これはもうロックダウンをしたところで抑え込むのは無理なのだと多くの人が悟ったあの日。Twitterでそんなネタ投稿を笑いながら、徹夜でAPEXのランクがプラチナにあと少しでなりそうだと、これまでにないほど真剣にPCに向かっていたあの日。
「じゃぁ、行ってきます」
リビングにいるMIKAにそういうと、ダイニングテーブルに置いてあるマスクをかぶりながら、僕は自宅の玄関を出た。
西暦20XX年、新型コロナウイルスの変異体”Aries”はこれまでの変異体”Ω”と比較して感染性が5割高く、重篤度の死亡リスクがはるかに高い、これまでの変異体の中でも最も注意すべきものと発表された。
僕たち医療従事者に昨年から配布されたマスクは、不織布のマスクでは到底防ぎきれないウイルスを機械的に浄化してくれる。目からの粘膜感染を防ぐために、大きめのゴーグルと一体型になっていて、スマートフォンにBluetoothで接続されている。ネットから様々な情報が共有され、看護や生活に必要な様々な情報がゴーグルに表示されるのだ。
今や医療従事者は圧倒的な人手不足から、僕のような看護学校をきちんと卒業していない人間も駆り出されるのが現状。幸い大学を卒業してもなかなか就職先が見つからなかった僕たちには、渡りに船だった。
さらに、このマスクをしていれば最低限何をすればよいのかを、マスクが教えてくれる。
「チョコ、今日の予定は?」
マスクのおかげで口元が隠れているし、音が外に漏れにくいため、ボイスコマンドが可能だ。チョコというのはマスクに装備されているアシスタント機能。AIが搭載されていて、とても有能だ。そしてアバターのデザインも僕好みの猫のキャラクターにしてある。こげ茶色のハチワレ猫。それでチョコだ。
「今日の予定は、9時からワクチンの輸送作業。10時までに日比谷のワクチンセンターに受け渡してください。同行者は大貫さんと渡部さんです」
ゴーグル内部にスケジュール表が表示された。さらに大貫さんと渡部さんの顔が映し出されている。もっともお互いにゴーグルで目しか見えないのだけど。
「了解」
「その後11時から日比谷ワクチンセンターの接種の受付を島崎さんと後退してください」
「何時まで?」
「14時までです」
「えー!昼飯は?」
当たり前だとでもいうように、抑揚のない声でチョコが答えるので、ちょっと不満そうに言い返した。
「14時から15時までの間が昼休憩になります。頑張りましょう」
「はいはい」
「もう少し歩くスピードを速めてください。8時5分の電車に乗り遅れる可能性があります」
マスクについているゴーグルには、複数のカメラが内蔵されている。そのカメラで様々な情報を常に取得しているのだ。僕の歩くスピードまで。
さらにゴーグルには、僕が乗るべき電車が二つ前の駅を出たことが表示されている。
今日ワクチンを受け取る場所は初めて行くところだけど、チョコの案内があれば迷わない。
電車に乗ると、降りる駅と改札に一番近い車両を教えてくれる。
新型コロナウイルスが蔓延したおかげで、東京の電車の乗車率が減ったのは素直にうれしい。満員電車で高校に通っていたころ、知らないサラリーマンが僕の首筋に思い切りくしゃみをしたことは、今でも思い出すと鳥肌が立つ。
僕が付けているマスクは、医療従事者用のかなりハイスペックなものだけど、サラリーマンや学生が付けているのはもうすこし機能を限定したコンシューマーエディションだ。
当たり前だが、マスクをしていない人は電車に乗れないため、必要最低限の機能しかついていない物もある。女子高生たちはそんな簡易マスクをデコって、クマやウサギの耳をつけたりしている。まるで毎日がディズニーランド帰りのようだ。最も学校でもつけていたら没収されるので、すぐに取り外せるようになっている。
それぞれがグループ通話につながっていて、電車に乗る前からずっと何かしゃべっている。
あとから乗ってきた娘が、当たり前のように会話に参加していた。
「駅に着きました。5番出口に向かってください」
「了解。ガイドを表示して」
「かしこまりました」
そういうと、チョコは5番出口への道をナビしてくれる矢印を表示した。
つづく。