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映画「アンドリューNDR114」を観て
たまたまYouTubeで無料公開中だった、こちらの映画。かなり古い映像なんだけれど、今見ても考えさせられる映画だった。
ここでの感想記事は、正しいかどうか、監督の意図かどうかはまあまあ無視して勝手に感じたことを書いています。
ネタバレ注意。
近未来、夫婦と2人の娘たちの家族がいて、ロボットがお手伝いさんとして働く、そのロボットがアンドリュー。
その家族とアンドリューの話。
情が湧いて家族同然だったロボットがある日暴走して、、というものかと思っていたが、そうではなかった。
ただただ忠実なアンドリュー、忠実すぎて壊れかける時もあるくらいだった。
ある時、一緒に暮らす娘との関わりの中で、アンドリューは人間のような好奇心、創造力を発揮する。
本来、命令されたこと以外の好奇心などの人間性や個性的であることはロボットにとっては欠陥品として扱われてしまう。
修理されかけるけれど、ロボットの主である夫婦の夫は修理を拒み、人間味のあるアンドリューに親近感を感じたり親睦を深めていく。
映画の中で、何度も「◯◯ later(◯◯年後) と出てくる。しかし、アンドリューは初期設定のまま年を取らない。
主は最期を迎え、そしてまた、娘たちも孫を持つ年齢となっていく。涙を流せないのがアンドリューをより悲しくさせる。
アンドリューは年を取らないが、旅に出て同じようなロボットの仲間はいないものだろうかと探し、人間になる方法を模索する。
この映画は、ある家族とアンドリューとの物語であり、
アンドリューの人間になりたい旅の物語なのだ。
***
人間になるとは、どういうことなのだろう。
とある研究者との出会いから、見た目が中年男性となるアンドリュー。
ビールの味がわかるようになるなど、少しずつ人間的な感覚を持っていく。
研究者は言う、「ロボットの時よりも人間は複雑な感情があったり、悲しみや嫉妬や、よくないとされることも感じられるようになるが、覚悟はいいか?」と。
(正確な文言ではないかもだけど)
アンドリューはそれに「もちろんYES」と返す。
そして、見た目も感覚も人間のように感じられ、人間とパートナーとして結婚したいということで、自分が人間であることと、人間との結婚を認めてもらいたいアンドリューは裁判を起こす。
年を取らない人間はいないということで、最初の裁判は棄却される。
すると、研究者に頼み、年を重ねる身体にしてもらい、いつかの寿命というものを組みこむことにする。
そうしてでも、人間である事を認めてもらいたい、愛する人との結婚を認めてもらいたい。
別に認められなくても、2人がよければいいのだけれど、“人間に認められ動く”というロボットの性質はなかなか変わらないのだ。
人間になることを切望したアンドリュー。
ひとつひとつの体験が、感覚が新鮮に感じられ、感動するシーンがあちこちに散りばめられている。
***
人間である私たちは、感覚に感動する事なんてどれくらい日常にあるだろう。
アンドリューが切望する人間とは、どんな存在に見えていたのだろう。
アンドリューが人間に近づきつつ、人間を知る旅の中で、アンドリューが出会う人間たちに“人間について”聞く場面があるが、人間側はうまく答えられない。
アンドリューには、人間は時々間違いも冒すということがなかなか理解できないし、失敗も大事ということがよくわからない。だけれどアンドリューはそういった人間の性質を学び、より人間らしい人間になりたかったのだ。
人間であるということはどういうことで、どんな存在であるかを、そうした角度から見る映画だった。
大変興味深かった。