当たり前のように生きてしまっている
ひさしぶりに高校生の頃から書いていたジュゲムブログを開いて、いろんな記事を眺めてみた。あの当時はあのジュゲムブログが秘密基地みたいな場所で、誰にも教えたくない、だけど誰かに見ていてほしい、そんな場所だった。
あの時の空気、あのひんやりした肌触り、匂い、全部当たり前なんかじゃなくて、事実としてそこにあって、そんなことにいちいち感動していた自分がいた。
いつだって前に進みたかったし、感動していたし、笑いたかったし、もっともっといろんなことを吸収したかった。限界があることも知らずにただただ突っ走ればいいと思っていた。
だけど思ったほど鈍感になれない自分がいて、その度に立ち止まって、わめていて、怒鳴って、反省して、人のせいにして、自分のことも責めたりして。何度となくそんな日々は繰り返された。
そこに真実があること、そして事実として成立していることに違和感を覚えたこと、そこに溶け込みたいと思ったこと、そこから逃げ出したいと思ったこと、全てひっくるめてそこにある事実でしかなくて、そのことに気がついた時にはもう、わたしはわたしの場所からいなくなっていたわけで。
そんな感じで数年が過ぎた。わたしはどこに行ってしまったのだろうと思う暇もなく数年なんてあっという間に過ぎた。
なんとなく男の人と寝てみたり、国家試験を受けてみたり、奇抜な格好をしてみたり、ネットで知り合った人と仲良くなったり。
いろんなことがわたしをわたしとしてまた形成していったみたいで、なんとなくここにまた生きてしまっている。
何度も死んで、何度も生き返るのだ。当たり前のように魂は生きてしまっている。
鈍感になりつつあるわたしなのに、幸せだと感じられない事実と隣り合わせでいる。
未だにぐるぐるとそのあたりを回りながら生きてしまっているけれど、出会う人出会う人がそれは綱渡りのように綱から落ちそうなわたしをなぜか助けてくれるからなので、わたしはやはり生きるしかないのである。
誰かのために生きるなんて、たいそうなこと言えないけど、誰かのために生きると言い切ることができるくらいには胸はって自分を生きている大人になっていたいとは思う。
当たり前の日常を、当たり前に幸せに生きていたいと素直に思えるようになれたらいいな。
とかなんとか書きながら散々泣きつくしたのでもうそろそろお風呂に入って寝ます。
おやすみなさい。ばたり。
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