悪い芝居「野性の恋」を観てきた。
物語はいつだって、終わってしまってから始まる。
恋なんてしなければよかった、恋なんてしなくてもいいんだよ、恋なんてあってないようなものでしょ?、恋なんて落ちたことないよとかなんとか色々と「恋」についての誰かの言葉は脳裏に浮かぶけれど、実際に恋なんてしたこと本当にあるのかな、なんて考えたりして。
恋に落ちた感覚なんてものはないに等しいし、恋をしたいと思ったこともない。ただ、自分の恋に恋してる自分は過去にいたのかもしれない。恋って誰かを想ったり、好きになったりすることだと思うのだけど、そんな繊細な心の動きをずっと感じ続けていられるような物語だった。そして恋に絶望し、自分に絶望し、恋する相手にをも絶望する自分をそこに見たかのような感覚だった。
あぁ、わたしはいつのまにか恋をしていたのかもしれないな、なんてふと気付く。そして、相手に絶望してしまうことを責めたり許せなかったりする自分も、そこに亡霊のように立っていた。
好きだと思っている人が幸せならそれでいいんだと言いつつも、相手に対するエゴを持っている自分もそこに存在してしまっているからタチが悪い。いったい自分ってなんなのだろうかという虚無感とやるせなさに滝のように打たれる夜は、確かにあったのだ。そこに自分の欲があることが許せなくて、だけど哀しくてどうしようもなくて。好きだから哀しいなんて、変な話である。好きなのに負の感情しか生まれないというのは、どうも腑に落ちない。人間ってやつは、本当にうまくはできていないのだなとふと思ったりする。
「うぅ」という言葉で物語は終わる。
言葉にならないその言葉が、わたしたちがどうしても言いたかった、伝えたかったことをすべて表してくれているようで、居ても立っても居られなかった。
そんな言葉をそのとき劇場にいたみんなで受け取るなんて思いもしなかったし、観客みんながその「うぅ」の言葉に必死に想像力を掻き立てたのだと思う。その空間には「うぅ」への想像力のグルーヴができていた。嘘だというならば信じなくてもいいし、もちろん疑ったあとに信じてもいい。そのくらい些細なことで、だけどわたしたちの中にもいくつも思い当たる感覚がそこには確かにあったのだ。
劇場を後にしても変わらずそこには地続きの日常があった。
いつものように人で溢れかえる街があった。誰かが話す言葉が妙に意味のあるように思えるような気がして、敏感になったりして。「うぅ」という言葉のその先を考えながら雑踏の中を歩く。人に塗れていてもどこまでも孤独で、なんだかさみしくなってどうしようもなくなって。
どうしようもなく脆くて弱いわたしがそこにはいた。そう、そういうことなのだろうと、声を殺して涙を流した。
わたしたちはいつだって誰かを想っていたいし、それと同じくらい誰かに想われていてほしい。そして今ここにある話を、今ここで聞いていてほしいのだ。だからみんな誰かのとなりにいたいし話したいし、わたしだってこうやってここでなにやらどうでもいいような、どうでもよくないことをつらつらと書き続けるのだ。
いつまでもそんな些細な、どうでもいいことをやめないでいたいと強く誓った観劇体験だった。