お風呂入る前にちょっとだけ
なんとなくこないだ思い出したことだけ、書いておこ、って
『三ノ輪の三姉妹』を見て、あんなに良い人のように見える父親にそんな影があることなんてあるかしら、なんて素朴に思っていたけど
かくいう私の父親が割とアレのまんまだったなと思い返した
私の父親は温厚を絵に描いたような人で、呑気で、のんびりしてて、優しくて、よく笑うしよく喋る たのしい人
だけど自転車乗ってて信号無視したのをたまたま警察に止められたとき、「うっせぇなこんなことでパトカー止めて馬鹿か、暇なんじゃねえのか!」って女性の警官にすごい剣幕で怒鳴ったことがある
その警官が身分証の提示やらなんやらの作業を終えて戻っていったあと、急に私の方を振り返って「あの警察の人、くだらないことで止めやがって腹立ったけど、なかなか美人だったな。」とヘラヘラ笑い出した
怖すぎるしサイコすぎてほんとびっくりした、
忘れられない思い出
父は普通にニュース見てて政治家に悪態つくし、野球の日韓戦では相手選手に対して「クソッ、なんだこのチョン公野郎が!」とか平気で口にする
女子アナを見れば平気で格付けを始めるし、なんなら女子アナ情報をウィキペディアで調べだしてあの子は女子大出身で云々、とかいきなり女子アナ採点始めたりする
失望するようなところも
全然好きになれないところも
めちゃくちゃあって、
よくよく考えてみれば
父の良くないところは父の穏やかな優しさを全て台無しにするくらいには沢山ある。
けれど私はそれにはなんだか慣れてしまっていて
父の穏やかで優しい方の人柄をみるようにして
父を相変わらず良い人だとすっかり思い込んでいたのだった。
幹江さんが、夫の良くないところを許せず離婚したというのは、ものすごく子どもや自分の正義や社会に対して誠実だったということの表れだと思う
なあなあにせず、ちゃんと良くないものを良くないものとして切り離した
でもそれが正解かどうか?
果たしてわからないものだよな
私も昔、演劇を自分がやっていた頃、
若かった頃、
正しくないもの、良くないことに対してすごく敏感で
神経を研ぎ澄まして「良くあろう」と常にギリギリと生きていたとき
父の、弟の、母の、祖母の、この社会の、良くないところが全部許せなくて、全部敵に思えて、何一つ信用できなくて 誰一人自分の周りに正しい人はいないように思えた
ひどく孤独で、孤独な自分は脆くて、簡単に崩れ落ちてどんどん心を疲弊させていった
そんなときに私の肩の力を抜いて、もしかしたら生きてみてもいいかもしれないなと、思わせてくれたのは父だった
父のように、鈍感で、呑気で、物事を突き詰めて考えずに、毎日を自分本位に楽しむ気楽さを持てればきっと生きるというのも悪くはないだろうと思えたから
今の私は父が女子アナの格付けを始めてもそれを止めることはせずヘラヘラ笑いながら相槌を打って聞いてしまうし
父が差別的な発言をしても、それに引っかかることがあっても、真摯にそれを咎めることはしていない、
できていない。
ゆるく、付き合って、鈍感になることで、私は私を守ってきて、わたしはわたしの生活を保ってきて、わたしはわたしの人生を取り戻すことができた
だから真面目に誠実に人生を進むこと、
真面目に誠実に何もかもに向き合うことが
人生にとっていいことだとは限らないんだよな、と思う
常に誠実で真っ直ぐな人の眩しさはとても美しいけれど。
誠実であることが人生を苦しくするのならば
不誠実で怠惰で傲慢だとしても、自分のために鈍感であることを選ぶ方が良い
26年生きてきて、そう思うなぁって、ことを、考えた日があったのでした。