えーけんのこと
映画を友人と行く機会もめっきり少なくなった。一緒に足を運んで語るのは配役や好きな場面、演技についてなどだろうか。そこより先、解釈が食い違ったりするとすっと引っ込める。別にそこまで話さなくとも楽しく過ごせるし、相手のフィールドで会話するのも楽しい。会話はチューニングを合わせたほうがスムーズに楽しく会話が弾む。それでも腹の底に沈んで吐き出さなかった言葉が汚泥のように溜まっていて、何となく何処かに吐き出しておきたい気持ち悪さを常に抱えていた。
その気持ち悪さを払拭する切欠を与えてくれたのが「松永天馬のA研!」というイベントだった。タグをつけさえすれば主催の方は目にしてくれるし、以前、私が書いたものを褒めてもくださったので、その言葉のどこまでが営業なのかという事はさておき、溜まった汚物を言葉にして吐き出して良いのだと思えたことが大きかった。以来時々自分の中の澱をnoteで吐き出させてもらっている。有難いとおもう。
十年ほど前だろうか、すでに広告のポップアップだらけの更新されないブログを見つけた。ノーランのバットマンを見ようか迷って、ネットを漁っている時だった。ゴア表現やホラーめいた後味の悪い話が苦手で、当時は見る前にある程度ネタバレや考察の前情報を入れてから作品を見ることが多かった。
そのブログには「もう一度見たくなる映画考察」と書いてあった。読んでみるとその人なりの視点が示されていて、確かに一度見た映画ももう一度見たくなる。解決されないままの謎がモヤモヤを生活に侵食させそうで避けていた映画も結末を予測させる手掛かりを丁寧に拾った解釈を載せていて、私が「後味が悪い」で乱暴に切り捨てていたものに込められた繊細な想いをを教えてくれた。
私がnoteを続ける意味ってこのブログなのだな、と思う。時間も超えて場所も超えてどこかの誰かがネットの片隅に置いた文章が私を捉える。評価され、著名な人の言葉より強く、amazonレビューの書評が、yahoo知恵袋のコメントが、何処かの誰かが吐き出したものが、利害も立場も無いからこそ深く届く。
だから、私が溜め込んだ淀みも、何処かの誰かに必要になるかも。私にもどこかの誰かのそれが必要だったから。私がずっと更新されていないブログを見つけたように、それが必要な人は自力で必要な何かに辿り着くという確信がある。だから宇宙に電波を送るように、海に小瓶を投げ込むように、紙の日記に書いても良いであろうこの文章をネットに上げる。
以前、松永さんがYouTubeで「あだると保育園」という施設を紹介していた。施設というかほったて小屋のような凡そ足を運ぶ価値があるとは思えないような個人の思いの詰め込まれた場所。自分の為に趣味で集めたヌード写真やらガラクタにも思えるようなものが展示され、自ら壁にスプレーでなぐり書きしたような詩と下ネタがないまぜになったような文章で威嚇しているかにも思える塀に隔てられている。
色ボケ老人の奇特な行動の末路…それを面白がるというのが一般的な正解の見方なのだろう。でもわたし、泣いちゃうんだよなー。他の誰でもなく自分だけの為にそれだけのものを積み上げたということが。それがどんな見苦しくみえるものであっても。そして私もこんなふうにしたいと思うのだ。
映画ってそーゆーものが溢れてる気がする。馬鹿馬鹿しさで照れ隠ししたシャイな純情みたいなこと。みっともなさで目隠しした傷つきやすい本心。スタイリッシュなものよりそんな泥臭さに惹かれる。それらを目にするのはとても疲れる。疲れるから、あまり映画を積極的に観たくなかったのだけど、でもやっぱり面白くて、せっかくイベントやるならあれこれ見てみようというモチベーションにもなって、ほんとに感謝してる。それだけ。