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【古典】「筒井筒」のルサンチマン_川端康成「化粧」から③_@伊勢物語23段

【140字まとめ】川端康成の作品「掌の小説」に「化粧」という短編があります。女の不可解な恐ろしさや「生」への貪欲さを描いていると論じられますが、「化粧をする女」の心の中はどのようなものなのでしょう。

1.川端康成「化粧」あらすじ

「私」の家の厠からは向かいの斎場の厠が見える。そこには男や老婆よりも若い女が来ることが多く、ほとんどの女が化粧を直して斎場へ戻っていく。喪服姿に真っ赤な口紅をひく姿を、「私」は「屍を舐める血の唇」と表現する。人の死を悼む場で自らを虚飾する「魔女」たち。ある日、いつものように厠をのぞいてみると、十六,七の娘が泣いている姿を見る。涙も拭かず流れるままにして、悲しみに暮れる様子に「私」はこれまでの「女への悪意」が洗い流されるのを感じる。その時、ふいに娘は手鏡を取り出し「にいつ」と一つ笑うと、ひらりと厠を出ていってしまった。「私」には謎の笑いであった。

2.化粧とはなにか。 

化粧には自らを美しく見せたい、美しくありたいという心の現れや、儀式的意味などがあります。川端康成の「化粧」においては、上越教育大学の小埜裕二教授は「自らの生をせき止めようとする虚飾の行為、死者に対する悼みの気持ち以前に、自分が生きていることを確証と思う行為」と読み取っています。

http://sun-cc.juen.ac.jp/~yuji/kawabata-kesyou.pdf

この小説で、語り手の「私」は化粧をする女を「魔女」とみなし、なじみの女たちに「斎場の厠で化粧をしてはいけないよ」と手紙を書こうと思うほど嫌悪しています。他者の死を悼む場における、女の生へのエゴイズムを感じているのだろうと思われます。

3.化粧と鏡

その女性への嫌悪は十六、七の少女の涙によって洗い流されるかと思われました。

人目をはばからず、思いっきり悲しみを吐き出すように涙する少女。拭いても拭いても乾かない涙を、しまいには頬に流れるままにして、壁に身を預けて放心しています。と、次の瞬間、少女は手鏡を取り出し鏡に向かって「にいっ」と笑い、厠をひらりと出ていくのです。

本文で「私」は「水を浴びたやうな驚きで、危く叫び出すところだつた。」と書いています。全き悲しみに打ちひしがれていると思われた少女の中に見たエゴイズム。最後は「私には謎の笑ひである」と結んでいますが、この笑いが謎ではなく、少女の中に女のエゴの恐ろしさと計り知れない闇を「謎」と言っているのでしょう。

さて、少女は化粧こそしませんが、この小説の中で「鏡を見る」「微笑む」という行為によって、「魔女」的存在に最後置かれています。つまり、化粧と鏡を見ることは同様の行為とみなされているわけです。

では、鏡を見ることは私たちの認知や脳、心にどのような働きをもたらすのでしょうか。

次回、茂木健一郎「化粧をする脳」(集英社新書)と併せて、筒井筒の女の化粧を読み取ってみましょう。


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