【随想】善行と幸運の女神@托鉢のお坊さんに出会った日
1. 托鉢のお坊さん
娘の部活動送迎を終えて家路に向かう途中、托鉢のお坊さんとすれ違った。
学生時代を過ごした奈良では、托鉢僧は風景の一つで、近鉄奈良駅前には毎日念仏を唱える姿が見られたし、折に触れて喜捨をすることが日常だった。
人並みの信心しか持ち合わせていないが、国文学を専攻する人間なので、お坊さんへの親しみというか「なじみ」がなんとなくある。説話とか読むし。
加えて、小学生の間は毎年、夏休みに町内こども会で禅寺へ1泊2日の「寺スクール」に行かされていたこともあるので、ちょっとほかの人よりは修行僧に尊敬と興味があるのかもしれない。
座禅をしながら聞いた仏様の話や永平寺での修行の話、住職が1週間座禅を組み続けた時の話を思い出しながら、久しぶりに喜捨をしようと考えた。
2.托鉢とお布施
以前、同じような機会があり、お布施として鉢にお金を入れようとしたら、静かな声で
「いただいた食べ物と飲み物だけで修業をしておりますので、お金はうけとれません。お心だけありがたく頂戴します。」
と言われ、深々とお辞儀をされてしまった。
托鉢は修行なので、そのお坊さんのやり方があるのだろう。
もしかしたら、流行りもあるのかもしれない。
このご時世、たった一人で、こんな西の果ての、空港と大型チェーン店しかないようなロードサイドカントリーベッドタウンを托鉢して歩いているのだから、よっぽど心が強いと見た。
一番難しい「もらうのは食べ物だけ」のお坊さんかもしれない。
駐車場に車を止め、急いでインターネットで調べる。
やっぱりお金でよさそう。
財布の中身を確認し、来た道を引き返した。
が、
托鉢のお坊さんは風のように消えていた。
3.上野の「THE BIG ISSUE」
こういうことは以前にもあった。
上野で待ち合わせしていた時、道で「ビッグイシュー」を売る人に会った。
とっさに財布を確認すると一万円札しかない。
さすがにこれは渡せないと、おじさんに声をかけ、
「お金崩してくるから、ここで待っててくださいね」と走った。
小銭を持って戻ってみたが、もうその人はいなかった。
4.善行にも前髪しかない
善行というのは難しい。
「喜捨」もお布施をする人間の修行だから、それを善行と呼べるかは異論があるかもしれないが。
例えば、電車で席をゆずろうとする。車いすの人に手を貸す。白杖を持つ人に声を掛ける。お年寄りの荷物をもつ。
出来そうで、「あ、あ。」と思っているうちに、その機会が失われていくことがある。
「幸運(チャンス)の女神は前髪しかない」
と言い慣わされるが、善行にも前髪しかないのかもしれない。
そういう機会を捕まえられる人になりたい。
今日は曇りだが、厳しい暑さになりそうだ。
僧衣の黒さを思い出しつつ、アスファルトの熱を受けながら玄関を開けると、クーラーの冷気が私を包む。