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幸せとは、思い通りになっていないことを思い通りにすることではない

今日は来週のハーフマラソントレイルランに向けて、最後の10キロランをして来た。レースのペースよりやや早めになってしまったけど、心地よいペースで走れたから良し。

走っていると、呼吸と身体がひとつになって、自分の呼吸が聴こえなくなる。そんな感覚がする時がある。そんなときに心に思い浮かぶことに耳を傾けてじっくりと聞くことが、自分にとってとても大切な時間になっている。今日はそのときに心に思い浮かんだことを忘れないうちに記録しておく。

私にとって、普段の生活の中で抱えている一番の苦悩が、夫が理解できない。理解し合えていない。思ったような信頼関係を築けていないと感じる。と言うことに起因している。

ただ、走っているときに、自分がそう言うことに悩めていることは、たぶんとても恵まれていることなんだろうな、と思った。

だって、毎日食べるものに困っているわけでも、今日一日どうやって生き延びられるかに悩むこともなく、家族が病気で生きるか死ぬかみたいな状況でもないし。戦争で離れ離れになったとか、自分の国にいると命が危なくて難民になっているわけでもないし。

夫との関係性に悩めていると言うのはとても恵まれた環境に私は生きているんだなぁ。人間ってのはどんな環境に置かれても、何かしらについて思い悩もうとする生き物なんだろうなあ。

いつだって、何かしら思い通りにならない事ってのはある訳だけど、幸せになるってのは、きっとその思い通りにならない事を思い通りにすることではないんだ。そりゃあ、思い通りになってない事が思い通りに行くようになったら、嬉しい。けど、何もかも全てが思い通りの世界を想像できるだろうか?

何もかもが思い通り。そんな世界に住んでいたら…、何のサプライズも何の喜びも何の苦しみも無い世界。そんな世界に住んでいたら、どうしようもない絶望に襲われる気がするのは私だけか?

だから思い通りにいかないことや、自分には到底理解の及ばないことがいっぱい転がっている世界に生きていることは、幸せな事なんじゃないか?

自分が世の中の全てのことや全ての人を理解できるだなんて言うのはとんでもないおごりだ。そんな世界つまらなすぎる。だから、自分が理解できないことや、理解できない人間がいるって言うのは、素晴らしい事なのかもしれない。

理解できないことや、理解できない人がいる。それをまず認知すること。それができれば良い。そして理解できないことがあり、理解できない人がいても良しとする。皆んな違くて皆んな良い。皆んな違くて皆んなキモくても良い(笑)。それが世界を作っているのだから。

そう言う構えができた時、自分を見つめる目が少しでも優しくなれるのではないか?

皆んな違くて皆んなキモくて良い世界なんだから、自分のことを理解できないと言う人が居ても、良いんじゃないか。理解されないからって、それは悪いことではないし、理解されるべきでもないのかもしれない。そのままで良いんだよな。

今日は取り止めもなく、こんな思いを巡らせながらのランだった。


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