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多くの本を読めば読むほどバカになる。

大学生の時にドイツの哲学者ショーペンハウアーにハマった時期があった。『意思と表象としての世界』を熱心に読んでた時期もあった。でもずいぶん昔のことなので、内容はほとんど忘れた。(笑笑)


しかし、今日ダイジェスト版を読み返してみて再確認したんだけど、
ショーペンハウアーは分からないことがあったらすぐにGoogleで検索する(ような)現代の風潮は厳しく批判している。そんなことをしていたら、単なる知識ばかりの頭でっかちのバカに成り果ててしまう。


つまり自分で物事を全く考えられない、他人の褌で相撲を取る受け身の人間になってしまう。

ろくに深く理解せず、なんでも人の言ったことを取り込む、他者の思想を無批判に取り込むと言った姿勢は、自ら自分の頭で考える機会を自発的に放棄しているのだ。
だからそんな悪習慣は止めるべきだ、と言う。



自分本来のテーマと無関係なさまざまな知識は、いずれ全部忘れてしまう。

忘れずに残ってしまった雑学知識は邪魔な贅肉にしかならない。


それは自分の純粋な思考を助けるどころか(さまざまな偏見を持つことにより)思考を邪魔するだろう。

自分の思考や理解を働かせずに単に眼から脳へとコピーされた情報は全部そんなもんである。

言い方を変えてみよう。
本で読んでその知識を知ったというものと、現実の経験を通じて自分自身で考えて考えた末にその結論に達した。というのでは天と地ほどの隔たりがある、ということだ。

数学の教科書で三平方の定理を学び、a^2+b^2=c^2
という定理を知り、その証明法も知識として知って記憶した。

( 三平方の定理 )



というのと、

さまざまな三角形や図形を自分で観察研究して、その末に自分だけの力でこの三平方の定理を発見した、というのでは雲泥の差がある。天と地ほどの違いがある。
後者ができる子供は極々限られた
真の天才児だけだ。

自力で三平方の定理を発見できた天才児は、一生涯そのことを忘れないし、それ以降、その知識を深めて他にもさまざまな定理や公理を発見し続けるだろう。

そのくらい差がある。

ここで重要なのは『本来の自分のテーマ、自分が成し遂げようと思っている仕事』それと関係する知識を調べたり得たりすることは意味があるし有益だ。

しかし本来の自分のテーマと全く無関係な、たいして興味も持てない雑学知識ををむやみやたらと知ろうとするのは百害あって一利なしということだ。

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彼(ショーペンハウアー)は無批判な多読の弊害を警告している。

ただ世の中には相変わらず多読を自慢してる奴らもいるが。(笑笑)

また、自分の知識をひけらかし自慢してマウントを取る輩もいるが。(笑笑)

まぁ突き詰めれば、彼ら(多読自慢の人々)のよって立つところは、全て先人他者の書いた本から得た思想である。それになんのオリジナリティもない。

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オリジナリティというのはその人独自の、魂から生まれて来た独特のものである。

誰でも個性は持っているし、その個性を発揮する自由や権利も持っている。

誰でも自由に自己表現して構わないのだ。なんの問題もない。

それにもかかわらず、ほとんどの人は他者の言ったことやった事に服従してしまう。

家庭教育で両親から躾けられ、学校教育で先人他者の思想や概念を叩き込まれ、社会に出たら社会常識という因習で縛られる。

そのようにしてその人はその人のオリジナリティを表現できないまま一生を終えてしまう。

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芸術の世界でも『誰でも生徒として始める。ほとんどの人は生徒として終わる』という皮肉な格言を聞いたことがある。

みんな先人の巨匠の真似、模倣からスタートするが、ほとんどの人はそのまま、先人の模倣から一歩も踏み出せずに、模倣をただ少し洗練させただけで終わってしまうという事だ。

後世の人は、その芸術家を○○流派の一人として捉えるだけだ。

憧れの偉大な先人のスタイルを学ぶのはどこの学校でも奨励されているし、上手く模倣できたら賞賛されるだろう。

だからその本人は調子に乗ってずっとそのスタイルを続ける事になる。良かれと思ってやっていることが後々大きな傷となる。でも、本当はある程度知識や技術を学んだ後は、その先に進まなくてはならないのだ。
だからこの問題は根が深い。


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しかし、ショーペンハウアーはギリシャなどの古典哲学は非常に高く評価している。

さらに同時代ではカントを評価し、ヘーゲルを全く下らない無意味な言葉遊びと切り捨てている。

※僕は個人的な感想としては、デカルト→カントと続く西洋哲学の流れは『頭おかしい連中の一派』だと思ってる。とにかく何でもかんでも疑いすぎだ!(笑笑)

ともかくショーペンハウアーといえども全ての先人の思想を無価値だと言ってるわけではない。そこまで極端ではない。

やはり素晴らしいものは存在するし、それらを学ぶ価値はあると言っている。

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ところで現在、2024年というこの時代を客観的に観察してみよう。

今やAI人工知能がものすごく進化しており、何か分からないことがあったらAIに質問したら秒で即答してくれる。

いずれ近いうちに人間は脳にナノチップを埋め込むとかしてネットに繋がり、頭の中で質問を考えるだけで瞬時に答えが得られるようになるだろう。

言い方を変えれば必要な知識は全て瞬間的にダウンロードできるようになるだろう。

そう言った時代がもうすぐやって来る事は確実だと思う。

では、そのような時代が来たとして、それでも知識雑学の量を自慢する意味があるだろうか?(笑笑)

全くもって無意味だと思う。
記憶する、学習する。その行為そのものが無意味なのだ。

そういった時代が来る。
もうすぐやってくる。

そうなると、残されたものはどうやって個性的に考えるか?

つまり思考力とオリジナリティの勝負となる。

それしか意味は無くなると思う。


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とは言うものの、僕の場合、すぐにGoogleで調べる事もある。

分からない言葉、知らない単語などに出会った時だ。その時は何も考えずに即座に調べる。そして内容をメモ帳に貼り付けておく。

こういった断片的知識は辞書的な内容をストックしているだけなので、Googleで調べることはなんの問題もないと思っている。

むしろその単語の意味が分からないままで先に読み進める方が問題だ。

しかしもっと大きいカテゴリー、何かの流行とか、思想とか、世の中の傾向とか、特定の意見や解説や批判は、ネット上で読んだとしても鵜呑みにはしないように気をつけてる。十人十色の考えがあるからだ。

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ショーペンハウアーは、また、ペシミズムの哲学者としても有名。

彼の言うには、人間の人生は苦悩に満ちている、人生は無意味で苦しい。本当に苦しい。
幸せになるためにはその苦悩を少しでも減らすことが必要だ。


そのためには他人からの賞賛を求めず、自分への誇りを持とう。
自分の活動範囲を可能な限り減らすようにしよう。多くの人間と交際してると多くの苦しみを背負い込むことになるから。他人には適度な無関心で接するのが好ましい。
とか言ってる。

つまり行き着くところは
自分一人の世界。
孤独礼賛なのである。

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