映画『ギルティ』を見た。
(ネタバレあり)
緊急通報指令室で元刑事のアズガーがオペレーターとして勤務している。
おそらく連日何でもないようなものばかりで、うんざりしていたのだろう。
同じところで働いている人に対しても、失礼な態度を取っていたらしい。
後で謝っていたことから分かる。
そこへ誘拐されたと思われる女性からの連絡が来る。
涙声で恐怖に怯えて上手く話すことができない。
一緒に深呼吸をするように促し、落ち着かせて話すことができるようにする。
家においてきた子どもに話しているふりをして、今乗っている車の色や車種などを聞き出して現場に対応させていくが、上手くはいかない。
携帯電話から移動中の位置情報や持ち主の個人情報が分かる仕組みとなっている。
自宅に電話すると子どもが出るがまだ9歳と6か月だという。
もう一人の子どもは赤ん坊。
その自宅から情報を得るためと子どもの様子を見るために、現場の警察官に確認に行かせる。
ずっと緊急通報室の映像と電話からの声や聞こえてくる音の情報しかない。
しかし、その音から多くの事が想像できるのが、この映画の凄い方法。
自宅に向かった警官の携帯からの現場の音や警官の息遣いの変化で、緊迫した感情や取り乱している様子が理解できる。
血だらけになっている女の子と寝室には死んでいる赤ん坊。
死んでいるかどうかの確認のために、息をしているかどうかを確認するように何度も言う。
しかし、そうしようとしないのは、見て確実に死んでいることが分かるから。
言葉の応酬で分かってゆく。
父親が子どもを殺して母親を誘拐していると思ったので
車の中にいる女性からの連絡の時に、次に扉があいた時には見つけたレンガで殴って逃げるようにと言う。
しかし、その女性と話していくうちに、子どものおなかに蛇がいたから、子どもが泣き止まなかった。
それで、そのおなかの蛇を取り出したと言う。
その車は医療センターに向かっていた。
そのあとにアズガーの思考が定まっていく間があり
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うなだれてゆく。
その後車の扉が開いて、先ほどの指示通りに母親である女性が、夫を殴って逃走してしまう。
明日には自分の起こしたことに対する審問があり、事実と違う供述をした刑事の友人にも、またうそを言わせようとしていた。
悪い悪に対しては悪を懲らしめるという確かな自信があった。
しかし、子どもを救いたいと願って子どものおなかを切り裂いたという母親。
その母親の思いが理解できていたので、警察にも言わず医療センターに連れていこうとしていた父親。
その様子を見ていた9歳の子どもの心配。
結果としては犯罪となるのだけれども、悪意があったわけではない。
むしろ救いたいという善意から起こっている。
精神的な病からのものもある。
犯罪は悪から起こるものだけではないという矛盾。
善意からの罪もある。
それに比べてのアズガー自身の罪はどうなのだろう。
この映画の題名となっている『ギルティ』(罪)
最後のほうで、車の音が聞こえてくる場所からの母親である女性からの電話が来る。
同時にその位置を確認して、その女性の確保の手配を進めてゆく。
高架から飛び降りようとしている。
話を続けてゆくことが必要であったことや、アズガー自身の罪を悔いていることから
アズガーが、自分は人を殺したを告白する。
殺さなくてもいい人を殺してしまったと。
通信が途絶え、何度も携帯にかけるが留守番電話のメッセージが流れる。
飛び降りてしまったのかと・・・
その後、確保したとの連絡があり、ほっとする。
お手柄と言われても多くの映画のように、調子にのるわけでもない。
ただ、アズガーは、マイクを外して席を立ち通報室から出てゆき
明るく輝いて見える扉を目指して歩いてゆく。
明るい扉は希望の扉とも言える。
そして、その自分が犯した現実を認めていくことは過酷なものとなることも想像できる。
どのように生きてゆくことが希望と言えるのか。
『罪』とはいったいどういうことが『罪』となるのか。
考えさせられた。