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辞めた後と絶望、そして復活へ
これまでのお話
ピアノを辞めた後
ピアノを辞めて、何もない、楽しくない生活になった。
憧れていた海外語学留学は親の海外嫌いで反対され、行けませんでした。「留学してなにがしたいの?」と言われても言語化できず、大人や同級生に馬鹿にされた。さらに、親に黙ってこっそり申し込むという能力がなかった。これも特性の問題かと思っています。
見た目が綺麗とか、成績が良いとか、なんの取り柄もない自分が嫌だった。
普通の大学生活は息苦しかった。
私の周りはドリームキラーばかり。自分の好きなもの、やりたいことをことごとく否定されて、息苦しかった。
さらに、バッハのイタリア協奏曲が好きなのをバカにされた。好きな音楽までばかにされ、笑われ、人から雑に扱われ、悔しかった。
親は自分がやりたいことをあまり理解してくれなかった。我慢しろ、諦めろの一点張り。体育会系出身だから、根拠のない根性論押し付けて、そういう思考になるんだろうと思います。
自分のやりたいことを理解して伴走して欲しかった。否定しないでほしかった。
服装から言葉遣いまで丁寧に扱われたかった。女に生まれたのに「お前」呼ばわりされて悔しかった。キレイで可愛い服が着たかった。丁寧に扱われたかった。その頃は赤文字系ファッションが流行っていた時代でした。
地獄の社会人生活・失業・絶望
たまにはピアノ弾けと言われたが、あの中身ないレッスンで弾けるものは結局0だった。何もなくなってしまった。
仕事は激務と人間関係がうまくいかず、年1回ペースで職が変わり、ついに長期失業となった。職場環境にもなじめなかった。
そういう事がわかっていたから、自分にしかできないことを子供の頃から身につけたかった。
また短期で失業するのが目に見えたので、就職活動する気もなくなった。
毎日が絶望的でした。ハローワーク行きが自分にとっては屈辱的でした。職員の的外れなカウンセリングに生きる希望を失いました。
(※この時点では手帳取得前の為、健常者用の窓口でした)
そんなある日、当時メンタル不調で通っていた病院に相談し紹介状をすぐ作ってもらい、転院先で発達障害の確定診断受けました。これがきっかけで就職活動がストップします。
その頃周囲はキャリアアップや結婚する人ばかりで、自分は人生のどん底に落とされました。
復活のきっかけ
障害者手帳申請の関係で時間に余裕があったので、たまたまYouTube漁っていたら、7~8歳くらいの子どもが、イタリア協奏曲第1楽章と第3楽章を完璧に弾いてるのを見て衝撃を受けました。
これ、小学生が弾ける曲なのか!!!
ショックを受けた勢いで、独学で再開。
イタリア協奏曲は第1楽章・第3楽章を必死に譜読みして形にしました。
レッスン中断前に途中になっていた、ベートーヴェンの悲愴第3楽章や、ドビュッシーのアラベスク1番、ショパンの幻想即興曲などが自己流で何とか読めて弾けるようになりました。
さらに、子供の頃ほとんどやっておらず、ネットで調べて独学でハノンやバッハのインベンションを弾きました。しかし腕がすぐ痛くなりやすかったです。
ピアノを楽しみつつ、通院・転職活動・昼夜逆転防止で通ったPCスクールと並行する日々が続きました。数か月後、無事に障害者手帳が発行され、すぐに就職が決まりました。理解のある人が多い環境でほっとしています。
どこでレッスン受けたいかは自分で決める
仕事に慣れてからレッスン受講しようと決意しました。
その時決めたのは、子供の頃に通った音楽教室には行かないと決めました。
同じ失敗は絶対したくない。
個人の先生を探そうと、インターネット検索で探しました。
親は反対でしたが無視しました。
今は上手くなりたいなら電車やバスを使ってでも行くのが当たり前だと思ったからです。
これが劇的に変わるきっかけになりました。
結論
言語化が難しい発達障害の自分にとって、自分の意思を言葉にするのは、誰かのサポートがないと、進路選択に支障きたすとわかりました。
周りは敵ばかりで自分を全力で潰しにかかってくる人ばかりでした。
将来のことを決める時は早い段階で頭ごなしに否定せず、伴走して欲しかったです。
今後の内容
好きな曲や、再開後のレッスンについて投稿したいと思います。
そういえば、再開して10年超えたことに衝撃を受けています。早い!
ここまで膨大になってしまいましたが、
読んでくださり、ありがとうございました。