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きょうだい児の私は、涙を誘うのか考えた話。

「ドキュメンタリーの題材になってくれない?」

と、言われたことがある。

「◯◯(私)の人生、ドラマみたいだし、絶対泣けるのがつくれると思って」と。

障害のある兄のいる私は、泣けるドキュメンタリーにぴったりだと思われたようだった。

本来であれば、光栄なことだと思う。こんな私が取り上げてもらえるなんて、思っても見ない話だ。

でも。それでも。

そう頭ではわかっていても、私は喜ぶどころか、猛烈な虚しさに襲われた。

私の人生はドラマみたい、じゃない、、と。

ドキュメンタリーの題材になるために、兄の妹をやってるんじゃない、、、と。

私の毎日は、ドラマなんかじゃなくて、どうしようもなくて、先が見えなくて、それでも兄や母とどうにか歩んできた、泥臭い日常なんだぞ、と。

被害妄想というか、過度な受け取り方をしたのはわかっているけれど。

ドキュメンタリーにしてもらって、誰かの力になれるのなら、それで良かったのかもしれないけど。

そんなことも思いつかず、猛烈に悲しくなってしまった。

そんな私だけど、

兄のことや自分のことでものすごく悩んだとき、

「これを乗り越えたら、いつか絶対同じ境遇のひとの力になれる」と、自分に言い聞かせてきた。

本でも出しちゃおうかなーなんて思って、細々と書き留めていたこともある。

そう思うことで自分を守ってきた部分と、本当にそうしたいなと思ったのと、多分どっちもだと思う。


結局、自分自身が一番、自分の経験をどう扱っていいのか、未だにわからないのかもしれない。

誰かのために活かそうとすれば、不幸自慢になってる気がして嫌気が差すし、

忘れたような顔して毎日過ごしていると、これでいいのか?とふとした瞬間に考えたりする。

そのバランスというか、扱い方が、私の中で非常に難しかったりする。

きっと、兄も歳をとっていく中で、また色々な変化があって、また、壁にぶち当たったりもして、

私の人生って、兄って、なんなんだろう、と思うときがくるのだろう。

でも、どんな人生になっても、いまの私を誇れるような自分でいることが、私の当面の目標だ。

自分の人生の意味を、

兄の妹として生まれたことを、

自分自身で考えて、進んでいけるように。

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