差別していたのは、わたし自身だった。【ハンチバックを読んで】
芥川賞発表のニュースを聞いて、その勢いで書店に駆け込んだ。
お目当てはもちろん、市川沙央さんの「ハンチバック」。
書店では残り2冊になっていて、心の中でガッツポーズしつつ、購入。
待ちきれずに帰りの電車で読み始めた。
……読み終わった。
なんというか、言葉にするのが難しい、というのが第一印象。
すごい圧でいろんなものをなぎ倒していくようなスピード感で、「うわっ」と思った時には終わっているようだった。
そして、すごく取り残された感覚があった。
この、取り残された感覚。
きっと「思ってたのと違う」という気持ちになったのだと思う。
もちろん、面白かった。わたし自身、純文学をあまり読んだことがないので、こんなにも面白いのか!と驚きもした。
でも、「思ってたのと違う」のだ。
ハンチバックは障害者女性が主人公の話だと聞いていた。障害の表現が、とても独特で面白い本だと。
購入前、それを聞いた時点で、わたしは「障害者の物語=お涙ちょうだい系物語」だと勝手に変換していたのだと思う。
でもフタを開けてみると、下ネタ満載。“そういう系”の小説を書く女性であり、不便を抱えて10畳の部屋で生きる女性の話。
「障害があっても強く生きる!」なんてよくある要素は1ミリもなくて、普通の女性のように生きられない苦悩や、普通を基準にしてつくられる日本社会への怒りがそこにはあった。
読み終えて、わたしはハンチバックを「お涙ちょうだい系物語」だと決めつけて読もうとしていたことにやっと気づいて、がく然とした。
日常生活でも、障害をもつ人に座席をゆずろうとしていた。自分は、そんなひとに理解があるはずだった。
でも、“わたし”と“障害者”を明確に分別していたのだ。
“障害者”はかわいそうな人たちだと。
わたしは、主人公が怒りを向けていたマチズモの一員だったのだ。
これなら、主人公に蔑んだ目を向ける彼のほうがよっぽどマシだ。
彼はきっと、主人公を1人の人間として見た上で、1人の人間として軽蔑しているから。
歪んだ目でこの本を読んでしまったから、まだこの本の本質にはたどり着けていないと思う。
だから、もう一度読み直したい。
もう一度、伊沢釈華にもう一度出会って、一人の人間として向き合いたいと思う。