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原点回帰のための、備忘録
自分のためだけの文章になっているのと、自分語りの文章を多分に含んでいるので、公開する必要はないかもしれないけれど、決意表明的な意味合いを含んでいるので、「公開に進む」ボタンを恐る恐る押してしまいました。
先日、村の友達と一緒に夜ご飯を食べて、ぺちゃくちゃおしゃべりしました。
同じようで異なる、異なるようで同じな、そんな世界観を持つ友達と話すのがとっても楽しくてついつい口が止まらなくなった。
ふと、彼女の方から質問されて、そのことについてもう少し考えてみたいと思った。
教育にこだわる理由はあるの?
元々、小中学生にものづくりや建築について学べる塾のようなNPOの活動に4年間携わっていました。
日本の建築家は世界的にも優秀だと称されることが多いにも関わらず、日本の公教育では建築教育が盛んではありません。大学の専門機関での教育レベルが高いことで、優秀な人材を輩出するのだと聞いたことがあります。
専門家は必要ですが、同時にそこに住まう人たちの興味関心を高めることの両輪で、豊かな地域環境や住まいが実現するのではないか?そんな思いから、まずは自分たちの身の回りにある材料やまちなみや風景について興味を持つ人を増やすために、このNPOの活動が始まりました。
これはNPOの設立理念なので、わたしの個人的な想いとは異なりますが、この設立理念については心から共感しています。
個人的には、「みんな違ってみんないいのだから、自分の居場所を自分の手で見つけてほしい」という想いが強いです。
ここで、わたしの原体験まで遡って考えてみようと思います。
小さい頃から、絵を描いたり何かをつくったりすることが好きでした。特に具体的な何かをモノに起こすのではなく、抽象的なイメージを自分なりにカタチとして表現するのが好きでした。
本を読むのも好きで、テレビドラマより小説派だったのは、文章を読んで想像を膨らませることが楽しかったからです。
でも、自分の考えていることや価値観について、とにかく自信がない人でした。「これってあっているのかな?」と、世の中にはたしかな正解があって、その正解に沿っていくことが正しいことだと信じていたからです。
そういう意味で(自分でいうのも憚られますが)、物分かりが良い真面目ないい子ちゃんだと思われていたんじゃないかと思います。わかりやすい例えで言うと、担任の先生に好かれる優等生タイプですね。
「自分の好きなこと、自分の考えていること」よりも、「世の中の正しいとされていそうなこと」に照準を当てて、それを繕うのに子供ながらに嫌気がさしちゃったりして、自室に籠って誰にも邪魔されず、何かをつくったり絵を描いたりする時間が好きでした。とにかくコソコソと、自分にとっての「好き」や「正義」が目立たないようにしていたことを記憶しています。
小学3年生のときから、高校生まで、そんなことが続きました。
明確に変わったのは、大学に入学してから。
とにかく、自分の常識では考えられない行動や価値観がありふれていて、衝撃を受けました。自分を持っている人が多くて、強さがあって自分に自信があって、かっこいい人が多かった。
自分がいた世界が随分とこじんまりとしていたんだなと気付かされました。
特に、建築学科に進んだことが功を奏したのだと思うのですが、工学部の中でも建築学科のメンバーは個性派揃いだったように思えます。
さらに、アートと工学の要素を含む学問柄もハマっていく理由の一つでした。アートだけだと刺激が強すぎる部分を、工学の部分が理性としてカバーする、みたいな構造のおかげで、アートと工学を行ったり来たりする感覚がありました。(大学の建築学特有のプログラムのおかげかもしれないです)
設計ひとつ考えるにしても、周辺環境の歴史から土地の環境、内部の人の導線と用途に合わせた面積を考えて、あと容積を考えていると断面図がこうなって。でもこうすると、立面的にみて周辺の人はどう思うかな?周辺に馴染まないかもしれない。プランを見直してみよう。でもコンセプトを曲げたくない…。
行ったり来たり、いろんな視点で物事を考えるトレーニングができたのは、紛れもなく建築学のおかげでした。
同時に、建築という大きな概念が、わたしの手に収まるはずもなく、ずっと宙に浮かんで手触り感がないことに、すごくモヤモヤしていました。
そのタイミングで、こどもたちにものづくりを教える活動に関わるように。
教えるためには、自分もできないといけません。実際に作って、フォルムや歩留まり、つくりやすさと、なぜこれを作るのか?何を伝えたいか?を整理しながら、製作物と授業を組み立てます。
授業は予想の斜め上をいくし、予定調和で終わることはまずないです。こどもたちの豊かな発想と創造性に、感心するばかり。
発表の時間に、作品について考えたことを堂々と伝えて、その作品に群がるこどもたちの光景を見たとき、「自分もこんな環境があったら良かったのに」と泣きそうになりました。
同時に、幼少期の自分と重なる生徒さんもいました。
その子の心中を想像すると、恥ずかしさもあると思いますが、考えたことを受け入れてもらえるかの不安もあるのかなと思います。
そんな子たちも、自分の殻に閉じこもるのではなく、少しずつでも打ち砕いていくと、違った世界が見えるかもしれない。その世界は混沌としているかもしれないけれど、そこでもっと豊かなものの見方ができるかもしれない。
見えなかった世界をのぞくための1歩を踏み出す、そんなお手伝いがしたい。
そう思って、教育に興味があります。
でも、受け身だと自分の世界は変わらない。
建築学を学びたいと思って入学して、学んで感じたモヤモヤ。このモヤモヤを解消するために、自分が本当に好きなことは何なのか?を手を動かして実践して考えて、いまに至ります。
林業や木材から起こる現象や関わる人が好きになったのも、いわゆる建築から足を踏み外したから見えた世界。自分が自信を持って「これがいい」と思えるのはいろんな視点がサポートしてくれるから。
いろんな世界をのぞく手助けはするけれど、そこから1歩踏み出して先を歩いていくのは自分の足で。
自分自身への教訓でもある。
だからこそ、サポートするだけではなく、力強い自分なりの歩みを進むことの大事さも同時に伝えたい。
「みんな違ってみんないいのだから、自分の居場所を自分の手で見つけてほしい」とは、そういうこと。
かなり長く、しかも自分だけの文章になってしまった。
こうして自分の本心を赤裸々に書くのは、めっちゃくっちゃ恥ずかしい。けど、自分自身ができないことは人に伝えられない。恥ずかしいけど、自分が信じていることを伝えるトレーニング。