デフ・ヴォイス ~法廷の手話通訳士~ を読んだがネタバレはない↓今書きたいことを書く↓
荒井がコーダで元警察事務で現在は手話通訳士で、あとは門○という男が重要参考人。
私は、幼少期から本が好きで本屋や図書館に何時間でも居られた。小中学校の国語の成績は良い方だった。「動物の飼い方全書」は何回も読んだのに、赤川次郎は1ページも読めなかった。進学校だった高校では現代国語、体育、芸術、倫理のみ赤点を免れた。理数系はもちろん、英語も全滅だった。自分は本が読めていると思っていた。読書感想文でも賞をもらったことがあった。小学校低学年の夏休みの宿題に子犬が生まれた話の絵本を読んだ。中学の英語の暗唱大会では代表になった。英語の音声を繰り返し聞いたり、復唱することは苦ではなかったし、人前で間違えずに披露するのも大したことではなかった。
試験で点をとることは今でも得意な方だ。意味が完全にわからなくても、日本語のトリックみたいなものを利用して選択問題なら全体の6割以上を取ることが難しくない。運転免許は1発で取れたし、高校で選択すらしなかった物理でも成功した。通信で学士を取得した。教科書のほとんどをきれいなまま売りに出した。落とせない科目は映像教材に頼って勉強した。なかにはそれすら通らずに事前課題の提出のみで本試験に挑んだものが少なくない。
ん万円払った夏期集中講座は課題の期限切れで試験が受けられず全てパーになった。
私は大事なことを先伸ばししたあげく、忘れる。
赤川次郎はたまたま初めて手にした時、文体が苦手だったのか、登場人物が多かったのか、ずっと読んでいない。小説どころか漫画でも、登場人物がたくさん出てくると全くわからないし、見分けもつかない。その時に気に入らなければ読まない。
登場人物全員は覚えられない。
人の話を最後まで聞くのがつらいけれど、心を無にするようにして我慢している。気になったことは実行しないと気がすまない。それって聞いていることになるのか?。。。なる。と思いたい。
集中力が続かない
なにもしていないのに、何かしなければならないとずっと思っていて、あれこれ思い浮かんで、結局なにもせず、、、。あるいは、限界まで動き回ってしまい、電池がきれたように動けないほど疲れることがある。しかし、今はそれもわかってきたので、とにかく時間があれば寝ることにしている。
頭の中が いつも忙しい
右へ曲がって下さい。とさっき言われても、左に曲がったりする。左と言われたような気がする。いや、どっちだっけな?私は右って言いましたよね!?と言い寄られても、そうでしたっけ?とホントに思うし、そう言うしかない。
さっきのコトでも正確に覚えて、思い出して伝えるのが難しい。
そんな私も、指文字は中学で50音も濁音半濁音も全部覚えた。好きな友達とこっそり会話したりして楽しかった。簡単な日本語対応手話もクラブで覚えた。ろう学校の生徒さんが赤十字のことを「あかじゅうじ」と音声日本語で言ったことが今でも忘れられない。きっと彼らは音読みを使わないんだろうな、という想像は当時からしていた。しかし、当時の私には「日本語」と「日本語対応手話」と「日本手話」が別のものだという概念はなかった。それを知ったのは、ここ10年以内のことだ。作品中、荒井が「その人がどんな手話を使うのか知りたい」と言ったことが新鮮だった。そして、どれもあまり通じない人との出会い。信頼。敵か味方か。。。
ある時点から私は、日本手話を学びたいと思いつづけているが、進まない。私はろう者にはなり得ないと、本作品を読んで改めて確認した。日本語対応手話の教室にはいきたくないし、私の毎日の生活にには、ろう者がいない。数年前に個人的に友達になれるかもしれないきっかけを得たことはあったが、相手は終始ケータイの文字を打って見せる同世代の若者だった。筆談と同じ要領で。その世界の入り口にも立つことはできなかった。近年、気になっていた通訳科のある福祉専門学校はその科の募集を停止した。それに、通訳科を経て私が通訳なったとしても、なんというか、行き着くであろうとてつもない隔たりを既に感じていた。それは、性別を変更した者同士ならわかる感覚とそれ以外の人の感覚の隔たりと似ているような気がする。私は普通という言葉が大抵の場面において不適切な表現になると思うので極力避け、よりふさわしい言葉を探して使う。簡単にいうと、嫌いなのだ。「普通」ってなに?みんなそれぞれ自分にとって自分は普通だ。もっというと「みんな」も大嫌いだ。みんなって誰?世間一般?無責任すぎて腹が立ってしまう。セクシャルマイノリティである私は、常にこういったことが頭のなかをぐるぐるしていて、時々破裂したようにベラベラとしゃべったりする。もちろん、寄り添って甘えさせたくれる相手にだけである。または1人きりで。健常者や障がい者という言葉も同様に嫌いだ。作品中に出てくる、ろう者、聴者という使い方は私も好きだ。ただ、作品中の「ろう者の定義」は、難しいなと思う。日本手話を第一言語とするものだけと限定していいものかどうか。現在の実際の日本ではどうなのか。調べたい。
さて、たまに会う人の中にはろう者もいる。しかし、まだ会話らしい会話ができたことがない。相手は、第1言語の獲得中であるようだし、私は相変わらず第一言語の音声日本語しか話せていない。
夜中になってしまった。もう寝ます。読んでくれたかた、ありがとう。おやすみ。
追記、自分が自分の言葉で語ることがいかに大事なのかを改めて教えてもらいました。通じやすいからといって、相手の言葉を使ったとしても、それは本意が伝わることになるのか?異言語間に限らず、同じ言語間だとしても、通じ合うということは生活や文化そのものを通して身に付いた言葉でなければ大抵の場合困難を極めるということを教えてくれました。
丸山正樹さんありがとうございました。
元気に長生きをするつもりです。 どうぞ気長におつきあいのほど よろしくお願い致します。