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愛犬ぼたが逝って一年たった
二月十日
ぼたが逝って一年たった。
”いっしゅうき”という言葉はしっくりこないが、いわゆる一周忌だ。
昨年末、ご近所さんとのおきまりのご挨拶で「一年あっという間でしたねー」「ほんと。もう年末なんて信じられませんね」なんて言葉を交わしたが、正直「まだ一年しか経ってないんだっけ?」そんな気持ちだった。
ふいに胸を押しつぶされるような寂しさが襲ってくるこの毎日が、いつもだったらあっという間に感じる”一年間”という月日をとても長く感じさせる。
まるで時空が歪んでいるようだ。
ぼたがいなくなってから、スマホで「去年の今日」の写真を見返すことが日々の習慣となった。
どの写真にもかわいいぼたが、そしてぼたをみつめるしあわせそうな夫と私がそこにいる。
それは病気を宣告されたあと、いわゆる闘病中の四ヶ月間も同じで、抗がん剤治療のための病院待合室ですら、私たちは楽しそうに笑っている。
ぼたと一緒にいられること。
それだけでしあわせだった。
どの写真もその時をありありと思い出されるが、特にぼたが亡くなる前の約一ヶ月間は、いちにちいちにち記憶が鮮明だ。
ハーネスをつけながらお鼻をちょんとさわった時の冷たさと、ぼたのちょっと迷惑そうな顔。
毎日行くカフェで好きな人たちに会えたときの尻尾フリフリ。
一緒にブランケットに潜り込んで昼寝したときの大きな寝息。
病気だとは思えないほど美味しそうにパクパク食べたお台場のやきにく。
結果、最後となってしまったさんぽの時、道端の花をクンクンするぼたに「もうすぐ春がくるね」と話したこと。
すべての瞬間、匂いや光、音や空気感までリアルに思い出され、まるでタイムリープだか、幽体離脱だかして、俯瞰で自分たちをみているような感覚すらある。
そして「おい!そこの私!あと数日後にぼたが死んじゃうんだよ!ほんとうにいなくなっちゃうんだよ!!そんなにのんきにしてていいのか!」って叱って教えたい気持ちになる。
「カウントダウンはじまっちゃってんだぞ!!!」
まあ教えたところで、あの時の私にあれ以上なにができるというわけでもないんだけど。それでも。
桜も、猛暑も、紅葉も。
誕生日、年末年始、初雪。
全部全部ひととおり"ぼたなし"で経験してしまった。
「季節よ、うつろわないで」という歌詞が入った有名な曲があるが、まさにそれ。
ぼたがいた日々がどんどん過去になってしまうこと。
これが、さみしい。
こういう文章は
「ぼたがくれた思い出を胸に未来へ進みたい」
といった感じで締めるのがきれいで健全なのだと思う。
もちろん私にもそういう気持ちは大いにあるし、実際前に進んでいるとも感じる。
進まされてる、というか。
それはもうまさに”時間が解決する”という言葉のとおりで、一年というこの時間が喪失の痛みをやわらげ、今では以前のように号泣することも少なくなった。
しかしわたしは”時間に解決をして欲しくない”のだ。まだ。
「季節よ、うつろわないで」
これが、心から愛した存在を失って一年たったわたしの今の気持ちである。