私たち夫婦の記録③義父の脅迫。金、子、自己肯定感が無くなる
現在までのいきさつを数回に分けて書いていきたいと思います。
夫婦カウンセラーの方に、昼ドラ3本分くらい書けますね、と言われた内容なため、嫌いな方はご注意を。
妻の父から、ばあちゃんへ脅迫電話
ここまで色々ありましたが、、
簡単に言えば、夫(私)が単身赴任し、妻子は実家に住む、というような家庭状況になりました。
別居生活がはじまって慣れる間もなく、私にとっては大きな出来事がありました。
突然、妻の父親から私の実家に電話があり、80歳のばあちゃんが電話を取りました。
要約すると、義父がブチ切れていて「お前のとこの孫が娘を捨てた、どうなってんだ、甘いだろ」
と、そういう電話だったそうです。
ばあちゃんから、泣きながら私の携帯に電話が来て、上記を伝えられました。
(ばあちゃんは夫婦仲良くやってると思っていて、現状を何も知りませんでした。伝えられていなかった私も悪い。なかなか難しかった。。)
そっから両家で家族会議に。
結果として、義父の主張は「今の額じゃ妻子の生活費に足りてない。こっちも金なくてつらい。もっと送れ」というパワープレイでした。
私はこれ以上実家を巻き込みたくなくて、通常の倍以上の婚姻費用を払うことに同意しました(実家暮らしの妻に数十万送っていました)。
当時の自分は、金払えばいいならしゃーないと思うしかなかった。
一切外食をしない、一食100円を切る、結婚式は全て断る。そんな金ねえ日々のはじまりでした。
(このときから、節約とそのための我慢には自信があります)
妻子、金、体力、心を失った31歳の新生活
新たな仕事が始まり、完全な新生活に。
仕事はいい人に恵まれ勤務できていましたが、心身ともに不健康で、満足のいく日はほぼ無かったです。
というのも、.
24時間365日ずっっっと、努力と成果が見合わないことにキレている「コイツ」がいました。
してきた努力:
包丁を向けられながらも、何をされても、自分はなんとか改善したいと行動してきた。妻のパニックに脅えながら、微力だけど支え、育児もしてきた。
その成果:
子どもを妻に取られ、脅迫され、金もなく、実家に心配もかけている。おかしいやろ!
こうして、自分の努力が報われない無念さとの戦いが続きます。
この期間、明らかに体調は悪いけれど、もっと苦労している人はたくさんいる、と言い聞かせて過ごしていました。
また明らかに体調は悪いくせに、毎日酒は飲みました。メーカー不明の格安な酒、ほんとにありがとう(アルコールは量を守りましょう)。
妻と会わない分家でのストレスは減りましたが、このように、自分と闘わなければいけない時間が増えました。
月月火水木金金、面会交流
子どもとの面会交流はほぼ毎週、往復600kmを通いました。朝暗いうちに出て、日付をまたいで帰り、そのまま仕事ということもありました。
それでも毎週行く要因はいくつかありました。
単純に子に会いたい、子どもに忘れられたくないとか、上記のようにもっと苦労しなきゃだめだという思いなど。
平日は仕事、休みは長距離運転&子を抱っこする日々は、腕と足が特にしんどかったですが、それよりもしんどいのは、面会交流後の帰路でした。
子どもとの時間はほんとに楽しくて、夕方子を妻に戻すときには、子が泣くこともありました。
そんなつらい別れをした帰りの道中、、やはり「コイツ」がめっちゃ出てきます。
休日朝早く出て、長距離運転して来たのに、、なんで暴力された側の自分が子を置いて帰らなあかんねん!しかも子どもを泣かせちゃってるし!おかしいやろ!
真っ暗な高速道路の無料区間、ストレス発散と眠気飛ばしのため、絶叫歌唱した斉藤和義のウェディング・ソングは一生忘れません。
雲一つなくきれいな星が見えるのにワイパーが欲しかった。自動で涙を拭いて欲しかったです。
毎度のようにぐちゃぐちゃに泣きました。
そして夜遅くに帰り、翌日には何食わぬ顔で出社する。これが子供のためにできるせめてものことだと思っていました。
この苦しい生活が1年ほど続き、妻が他の男と寝ていることが発覚します。
(つづく)
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