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「自分はかっこ悪い」と言えるやつがかっこいい

 私の知る限り、星野源は芸能人の中でもとりわけ女々しくて根暗で情けない印象がある。そんな星野源がどうしようもなくかっこいいなと思う。

 多くの芸能人はテレビの中の手の届かない存在で、一般人とは比べものにならないスタイルの良さと整った顔立ちで、高いサラダを食べて、高い服を着て、タクシーで移動してそうなイメージがある。とにかく私たちとは住む世界が違うんだと思わされる。それくらい、キラキラしたイメージがある。

 星野源のエッセイ『働く男』を読んでいると、彼は圧倒的に女の子にモテないし、スケベな妄想をしてるし、カッコイイ服が似合わなくて、モデルや雑誌を見て悔しがっている。なんかキラキラした芸能人って感じではない。だけど、星野源が自分をそんな風にダサく、情けなく表現した文章を読んで、彼がすごくかっこいい人間だなと思う。

 自分の情けない部分なんてない方が良いとみんな思っている気がする。出来れば情けない部分を隠して、キラキラした部分だけを見せて、みんなに憧れられてみたい。ダサいなんて思われたくない。みんなそう思っている。
 別にキラキラしていると思われたいのは、表に立つ芸能人だけじゃない。身の周りの人たちだって、インスタを開けば豪華な食事や高そうな服や盛れた顔面をみんな載せている。みんなカッコイイと思われたいから、自分のカッコイイ部分だけを切り取って載せる。

 みんながそうだから、星野源はかっこいい。
 みんなダサい部分を隠して、キラキラした部分を見せて、ファッションとしてカッコイイ部分を見せて、「これが私です」と表現する。星野源は、自分の情けない部分も見せて、ファッションとしてダサい部分も見せて、「これが私です」と表現する。
 だから、かっこいい。

 女々しいことや、情けないことや、スケベなことや、だらしないことは、ファッションとしてカッコよくない。ダサい。だからみんな隠すし、別に知られたくないと思っている人が多い。
 そういう部分を、女々しくて情けなくてスケベでだらしない部分を、含めて自分だと発信できる。それは、人からどう見られようと、一般的にダサいと言われようと、自分はそういう自分を受け入れているからこそだと感じた。

 それも、「こんなんだけど、私は恥ずかしくありません」と開き直ったり虚勢を張るんじゃなくて、「自分のこんなところ、恥ずかしいなあ、ださいなあ」と言って、でもそんな自分ごと受け入れている。かっこいい。

 自分のださい部分を誰かに知られたくないって思うことは自然な気持ちだけど、でもそれは、他の誰よりも自分が1番、自分のださい部分を嫌っているっていうことだと思う。
 少なくとも私は、私のださい部分を知られて他の人にどう思われるかなんて、分からないけれど、自分では、知られたらマイナスな印象を抱かれるんだろうなあと思っている。自分が自分のだささを1番否定している気がする。

 あーあ、星野源、かっこいい。キラキラして憧れる芸能人じゃなくて、ダサくてかっこいい星野源にいちばん勇気づけられて、励まされて、ダサい私を肯定される気がする。
 星野源のダサさが世界を救ってるんだなあ。かっこいいなあ。


(もちろん、星野源さんは歌が上手いし歌詞も素敵で、お芝居も上手いし、文章を書くのも上手いし、芸能人としてキラキラしているのは大前提で、そんな星野源さんがキラキラした部分だけじゃなくて情けない部分も見せてくれるからこそ、もっとかっこいいんだ、という話です。!)

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