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山羊たちの沈黙

はじめに

《史記》に「鹿を指さして馬と為す」という故事があり、俗に「馬鹿」の語源とも言われる。秦の趙高が、皇帝に鹿を馬と偽って献上したというエピソードである。が、はたして趙高は馬と鹿の区別がついていたのだろうか。どうでしょう班にもトラとシカを見違えた故事があるではないか。きたやまようこの名著『イスとイヌの見分け方』が指摘しているように、ある日突然イスとイヌが見分けられなくなることだって珍しくない。いわんや馬と鹿をや、である。

さて、馬と鹿やイスとイヌの見分けがつかなくなることがあるくらいなら、ヒツジとヤギが区別できなくなることも当然あるはずだ。分類学的にも近縁だし見た目もよく似ている。ぼくは沖縄でヤギ汁を食べたことがあるが、ヤギの肉はジンギスカンの癖を強烈にしたような風味を持つ。

イスとイヌはともかく、ヒツジとヤギを間違えることはない、と自負する人がいるかもしれない。しかしこれは決して冗談ではなく、歴史を追ってみると、ヒツジとヤギの区別はさほど自明のものではないことが分かってくる。本記事はそんなヒツジとヤギの区別に関するお話である。

メンヨウなる獣

そもそもヒツジ(綿羊)は中東を原産地とする乾燥地帯に住む動物である。毛が厚いので、高温多湿の環境では生育に向かない。これに対しヤギ(山羊)は気候への適応性が高く、山がちな場所でも放牧できるため、世界中の多くの地域に進出している。侵略的外来種としても悪名高い。

ヒツジという語の由来はよく分かっていない。そもそも北海道への植民が始まる明治時代まで、高温多湿の日本にはヒツジは定着しなかったのである。近代以前、ほとんどの日本人はヒツジを見たことがなく、ヒツジは「干支に出てくる動物」としか認識されていなかった(このサイトが分かりやすい)。奈良時代にちょっとだけヒツジの図像が日本にももたらされたが、平安時代には早くも忘れ去られ、ヤギとヒツジが混同されるに至る(廣岡 2018)。

一方、ヤギなら知っていたのかというとそんなこともなかった。16世紀ごろ南蛮人を通じてヤギが持ち込まれ、長崎と南九州、南西諸島などに生息していただけで、やはり明治期までそれ以外の地域では見かけることはなかった。ヤギという言葉は、「野牛」がなまったものか、もしくは近代朝鮮語のyangからの転と考えられている(松尾 ‎2014)。話がややこしくなるが、朝鮮語にはヤギを表す염소 ヨムソという固有の語彙があり、ヒツジを表すのには中国語から羊yangの語を借用したようである。

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江戸時代には博物学が発達し、『和漢三才図会』などの類書が編まれたが、ここで紹介されている羊も、図像をみると多くの場合ヤギとの混同がみられる。この絵は当然、漢籍を引き写したものであった。江戸中期の儒学者・荻生徂徠は『南留別志』の中で、元々日本にいないはずの動物に和名があることに首をかしげている。

虎をとらといふ。羊をひつじといふ。此国になき物なれば、和名あるべきやうなし。とらは朝鮮語なりといふ。さもあるべし。ひつじも、異国の詞なるにや。

ヒツジにしてもトラにしてもそれが外来語由来なのかは今日まで結論をみていない。ただ、おそらくは十二支の輸入と同時期(5世紀ごろ)に名前が当てられ、暦や方角の語彙として化石的に生き残ってきたものと言えるだろう。同じことは竜にも言えるが、トラや竜はしばしば絵画の題材ともなっているだけ、ヒツジよりはまだ日本人にもイメージしやすいものだったと言える。

迷える羊

では十二支を伝えた大陸の側ではヒツジとヤギが明確に区別されているかと言えば、そんなことはない。たとえば、十二支の未年が「ヒツジ年」なのか「ヤギ年」なのかという問題は、2015年未年の春節に英米メディアを発端にちょっとした話題になった。ちなみにニューヨークタイムズ紙は「角のある反芻動物全般の年」と訳したそうである。

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実のところ、という字はだいたい分類学上のヤギ亜科(特にヤギとヒツジ)を総称する概念であり、字義上はヤギとヒツジとの間には明確な区別がない。しいて区別するときは綿羊と山羊と呼ばれたりもする。甲骨文におけるの字の角の形がヤギに近いため、この漢字はヤギを指すものとされることが多いが、ヒツジを指すのだと主張する学者もあり、その起源については決着を見ていない(朴&闫 2020)。

初期の漢字が誕生したのは紀元前1300年ごろ、黄河のほとりに栄えた都市国家・殷においてであるが、黄河中流域の仰韶文化圏においては紀元前4500年ごろの家畜化されたヒツジの骨が確認されている(Dodson et al. 2014)。一方ヤギにしても、二里頭遺跡で紀元前1800年ごろの骨が見つかっている(Yuan 2008)。ヒツジの群れを誘導するためにヤギを群れに混ぜて管理する習慣は牧羊地域では共通して見られるが、中国にもその習慣が伝わっていたかもしれない。

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つまり、初期の漢字を生み出した殷王朝の周辺には、漢字が出現する数百年・数千年前から、ヤギとヒツジの牧羊が営まれていたことを示している。にもかかわらず、ヤギとヒツジとを区別する漢字=語彙が古典漢語にも見当たらない。これはテクスト解釈、名物学上の問題でもあって、深く追究することは控えるが、少なくともヤギとヒツジのどちらかを表す語とはっきりと言えるものはなかったか、あったとしても後世まで伝わらなかったのである。

かくして、どういうわけかの指すものが判然としないまま三千年が経過し、中国の旧正月を伝える海外メディアの頭を悩ませることとなった。ただ一般に、未年=ヒツジ年が優勢なのは中国の北部のようである。南方にはヤギしかいないから、多くの人は未年をヤギ年と考えている。中国南岸の広州には五羊伝説という、稲作とヤギが持ち込まれたことを示唆する植民神話が知られており、ヤギは低緯度地域では重要な家畜であったといえる。

ちなみに、中国南方に限らず、より低緯度に位置する東南アジア・南アジア等でもヤギ肉をマトンと呼んでいるらしい。ヒツジが住んでいない地域の人々には、ヤギとヒツジの区別など端から問題にもならないのである。こうして考えてみれば、荻生徂徠が疑問を呈したのももっともな話であった。

僕はヤギにでもなる

なぜヒツジとヤギが同じ語で表されるに至ったか、その原因を推理するには、ヒツジとヤギを区別する文化と対照するのが良いかもしれない。

未年がヒツジ年かヤギ年かは、多くの中国人にとってはさほど重要でないかもしれないが、クリスチャンにとっては大きな問題である。『創世記』のカインとアベルの対立に始まって、牧羊民としてのイスラエル人の記憶は、聖書の中に色濃く刻まれている。

「あわれな子羊」は、言うまでもなく信徒=善の象徴であり、かたやヤギには悪魔の手先としてのイメージが付きまとう。この善悪二元的対立をもっとも端的に表しているのが、新約聖書マタイ伝25章の羊と山羊の裁きであり、「ヒツジとヤギを区別する」とは、キリスト教文化圏の慣用句でもある。

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象徴的な意味合いはともかくとして、実用上の観点からヒツジとヤギを区別する必要があるとすれば、それは繊維材料としての毛の利用であろう。古くから毛織物が用いられてきたのは、中東からヨーロッパにかけての地域である。羊毛に価値を置く文化圏が、奇しくもヒツジに善性を見出したユダヤ・キリスト教文化圏と重なっているのはなかなか興味深い話である。

再び東アジアに目を向ければ、今でこそ中国北部は世界有数の羊毛産地である。しかし中国の服飾史上、毛織物は近年まで全くと言っていいほど表舞台に登場しなかった。古来中国の布製品といえば、ギリシャにもその名が聞こえた絹織物であり、常用着としては麻、のちに唐代に至って綿が生産されるようになった(Encyclopedia of Clothing and Fashion)。中国で羊毛の輸出が始まったのは19世紀末以降のことである(村上 2016)。

加えて、長期的な気候変動にも目配せしておく必要がある。殷から西周前期(紀元前1700〜1000年ごろ)にかけて、黄河中流域の渭水盆地の気候は今より平均して2度ほども温暖で、かつ雨が多かったと考えられている(爱汉服)。絹織物文化の発展は、こうした温暖湿潤な気候条件を背景としていた。かつて黄河中流域で牧羊が営まれていたとしても、このころには、高温多湿を嫌うヒツジの群れはより内陸のモンゴル高原に追いやられていたであろう。

古代中国における羊の利用は、筆の材料など限られた用途を除けば、食肉・乳や皮革の利用、あるいは儀礼の生贄としてのものに留まっていた。古来の漢民族が「ヒツジとヤギを区別する」必要を見出さなかったとすれば、それは羊毛利用の有無に原因を求められるのかもしれない。無論、あくまで「かもしれない」のお話である。

おわりに

2021年は丑年のはずだったが、いつの間にやらウマの年になってしまった。これに乗じてウマに関する記事を書いていたら、いつの間にかヒツジのほうが筆が乗ってきたので、先に書き上げた次第である。ヒツジもヤギもウシ科の動物であるから、当然この丑年の記事にふさわしいはずである。

いつの日か、ヒツジを知らない惑星の王子様が目の前に現れて「ぼくに羊を描いてよ」と言うかもしれない。あなたはその時ヒツジを描けるだろうか。サン=テクジュペリが描いたヒツジが、どことなくヤギっぽいことはこの際ツッコんでもよい(ヒツジの尻尾は下向きでヤギの尻尾は上向きである)。しかし覚えておいたほうがよいのは、われわれの認識カテゴリは相対的なものでしかないし、ヤギを見て羊という人、あるいは3つ穴の開いた箱のような絵を指さしてヒツジだという王子様がいても、決して馬鹿にすべきではないということである。

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