性なる勤勉家ビーバー
カストリウムの香水のせい
ビーバーといえばダムを作る動物である。原宿を歩いてる渋谷のJK100人に、ビーバーについて何を知ってますか?と聞いたら98.5人からそんな答えが返ってくるに違いない(1.5人は北陸製菓のおかきの話をすると思う)。JK以外の日本人に聞いてもまあだいたいは同じように答えるだろう。古くはダム作部(ダムつくりべ)としてヤマト朝廷に仕えたと古事記にも書いてある。嘘ですが。
裏を返せば、我々はビーバーについて「ダムを作る」(ことと、北陸製菓のおかき)以外のことをほとんど知らない。この辺については、東洋人よりはヨーロッパ人かネイティブ・アメリカンにでもお伺いを立てたほうがよいだろう。18世紀パリを歩く貴婦人100人に尋ねてみれば「あら、このお帽子のことかしら」という答えが返ってくるだろうし、アメリカ先住民イロコイ人100人に聞いてみれば「狩りによく使ってるぜ」みたいな答えが返ってくる、と信じたい。
イロコイ人男性が狩りによく使ってたカストリウムとは、ビーバーの肛門腺近くにある香嚢の分泌物を粉末状にした香り成分である。ビーバーはこの分泌物を尿に混ぜてにおいをマーキングする。アメリカでは様々な動物の誘引用の罠として用いられてきた。この油脂のような物質は薄めると皮革のような動物性の香りがするという。バニラのような香りも呈するので、実際現在でもアメリカでは食品添加物としての利用法もある。一部のマニアックな読者が喜びそうな話である。
カストリウムの用法は香りだけではない。ヘロドトスやヒッポクラテスが記しているように、古くからヨーロッパやその周辺地域において、カストリウムは女性の子宮病や中絶の薬、また鎮痛剤として服用されてきた。実際、カストリウムには鎮痛薬や皮膚病の薬効成分であるサリチル酸・アスピリンなどが含まれているから、当たらずとも遠からず、といったところである。
時代が下って16世紀ごろになると、丈夫で柔らかく撥水性の良いビーバーの毛皮は、とりわけ帽子の材料として注目されるようになった。19世紀にシルクハットに取って代わられるまで、ビーバー帽はヨーロッパの上流階級のファンションアイテムとして重要な地位を占めていた。かのナポレオンの肖像画が被っている二角帽子も、ビーバー皮が用いられている。
このように、古くからビーバーとともにあったヨーロッパ人やアメリカの先住民にとって、ビーバーは薬の原料であり、毛皮や食肉の給源であり、またのちには香水の原料にもなった。そういう様々な利用の対象だったので、ヨーロッパビーバーはかつてヨーロッパ全土で1200頭あまりまで減少したことがある。そこから涙ぐましい回復プログラムの結果、数十万頭まで回復したのだから驚くべき話である。
ビーバーがどういう用いられ方をされてきたか、という点は、以上に大雑把に述べたとおりであるが、それはWikipediaなどにも書いてある話で、ここでの本題ではない。ここからのお話は、ヨーロッパ人にとってビーバーはどういう生き物と捉えられてきたか、についてである。
本記事はほぼ下の3つの記事の内容をなぞっている。中身について詳しいことはこちらを参照していただけると幸いである。解釈が間違っているなどの箇所があったら遠慮なくご指摘ください。
https://www.wired.com/2014/10/fantastically-wrong-people-used-think-beavers-bit-testicles/
https://www.jehsmith.com/1/2019/06/in-castoria.html
https://seanmowbray.com/2019/09/18/rome-and-the-age-of-the-self-castrating-beaver/
去勢するビーバー
ギリシャには毛皮交易の中心地として名高いカストリアという町がある。この地名の由来には諸説あるが、有力な説ではギリシャ語のビーバーの呼称 κάστωρ カストール に由来する。この言葉はラテン語に借用されて castor となった。当然、上に述べたカストリウム(catoreum)もここから派生する。ビーバーに詳しい人であれば、ビーバーの属名 Castor を思い出すだろう。参考までに、アメリカビーバーの学名はCastor canadensis、ヨーロッパビーバーの学名はCastor fiberである(注1)。
ところで話は変わって、英語で「去勢する」ことを castrate という。近世ヨーロッパにはカストラートと呼ばれる、変声を免れるために去勢された男性のソプラノ歌手もあったが、これらの派生元はやはりラテン語の動詞 castrō(去勢する、罰する) である。
この字面の類似は偶然だろうか? おなじみの Online Etymology Dictionary によると、κάστορ はもともとギリシャ神話の双子の英雄カストールから取られたとされている。カストールは女性病を平癒する神と信じられていたという(注2)。いっぽう、ラテン語の castrō は印欧祖語の *castrum(刃物)から派生したとされている。つまり、今日では語源は全く別のものと考えられている。
しかし、中世までのヨーロッパ人はそう考えていなかったようだ。というのも、ビーバーは「自ら去勢する」動物と考えられていたからである。ビーバーに関する記録を古典に求めると、紀元前6世紀ごろのイソップ寓話にまで遡る。それはこんなお話である――
海狸(ビーバー)は湖に住む四足の動物である。その生殖器はある種の病気治療に有効だと言われるので人間が海狸を見つけて追いかけると、何のために追いかけられるか知っているものだから、あるところまでは足の速さを頼んで逃げ、体を無傷に保つが、いよいよ追いつかれそうになると、自ら生殖器を切り取って投げ、こうして命を全うするのである。/このように人間の場合でも、財産ゆえに狙われた時、命を危険に晒すようなことはせず、財産を見切る人こそ、賢明なのだ。(岩波文庫『イソップ寓話集』p.105)
ギリシャ・ローマの時代からこの寓話は長いこと信じられていたようで、ヨーロッパ世界においては、自分の身の安全を守るための教訓として好んで用いられてきた。馬鹿げた迷信と切り捨てた人々がいなかったわけではないが、ごく少数派だったし、解剖学的な理解もきちんと進んではいなかった。ついに過去の解剖記録を読み込んだイングランドのトマス・ブラウン卿が、『迷信論』の中で「ビーバーのキン○マ体の内側にあるやん!切り取られへんやん!」とキレたのは1646年のことである。
いや狩ってる間に気づけよ――とはいかにもビーバーを狩ったことのない人間の謂である。古代の狩猟者たちがビーバーの股間に幻視していたものは、ビーバーの香嚢が外に飛び出した部分のでっぱりなのであった。彼らはこの部分を切り取っていたわけである。……というかこんなもったいぶった言い方をするまでもなく、castoreum とかで画像をググったら分かることである。どうみてもキンタ○ですありがとうございました。
とはいうものの、たとえ香嚢と陰部を間違えたのだとしても、ビーバーはやはり自分の香嚢をかじり取ったりはしない。結局この奇妙な説はどこから生まれてきたのか?
「何人かの著述家は、castor と castrando(castrōの活用形) という字面の類似に騙された」とブラウン卿は指摘している。実際、いくつかの中世の文献にははっきりと castor と去勢が結びつけて語られている。とすれば、単に言葉の連想ゲームから生じた逸話という可能性もなくはないだろう。だが、このギャグみたいな理由で説明するにはいかない。古典ギリシャ語では、去勢を意味する動詞は ἐκτέμνω(エクテムノー、切り取る)であり、κάστορ とは似ても似つかないからである。
ブラウン卿はこうも記している。「エジプトのヒエログリフに、ビーバーが人間の姦淫を戒めるためにみずから陰部を切り取ることが書かれている」と。注意すべき点として、彼の生きた時代にはヒエログリフはきちんと解読されていなかった。したがって彼がどこからこの記述を引いてきたのかは不明である(注3)。しかし、イソップ寓話は確かにアジアやアフリカの神話やことわざの類から伝わったものも多いので、その筋は否定できない。ローマには、象は自分の身が危うくなると自分の象牙を差し出す、という説話もあったという。
この問題に関しては、真相はよく分からない。おそらく元々は、殺されたくなければ金を置いてけ、と脅す盗賊に対する処世術の類だったのだろう。そこでなんでビーバーを持ち出したのかは依然として謎であるが、財産にも並ぶ「大事なもの」の比喩としてあまりにも秀逸なことは確かである。
ここまでの経緯を考えれば、キリスト教世界においてビーバーが純潔の象徴として受け取られることも不思議な話ではない。11〜12世紀の神学者として知られるアベラールは、エロイーズとのスキャンダラスな熱愛の末に去勢されたことで有名である。パリの世界遺産コンシェルジュリーには、去勢された男性器を持つアベラールとエロイーズ、そしてこのカップルから背を向けるようにビーバーを配置した、クラシックでアバンギャルドな彫刻がある。性に無関心なビーバーに対比させることで、去勢してもなお尽きせぬアベラールの情熱を示しているのである。もうちょっといい表現なかったのだろうか。
勤勉なる獣
さて、ブラウン卿がギリシャ以来の迷信を破ったころは、乱獲のためにヨーロッパビーバーの捕獲数が徐々に減少し、アメリカビーバーを求めて交易の中心が北大西洋に移っていた時代だった。フランスは1608年に、現在のカナダ連邦の起点となるケベック交易所を建設している。カナダの国獣はビーバーであるが、まさしくカナダという国はビーバーの毛皮の富によって作られたのである(カナダ観光局からの受け売り)。
アメリカビーバーとヨーロッパビーバーは外形においてかなりよく似ているが、生態にはやや異なる点がある。例えば、アメリカビーバーのつくるダムとロッジはヨーロッパビーバーのそれに比べて大きく、またロッジは河岸から独立して建っている。これは外敵の多い環境への適応の結果であるが、ヨーロッパ人にとって、新しいビーバーのダムの構造は驚くべきものとして受け入れられた。このダムの建設者に対してヨーロッパ人は、ヨーロッパビーバーにはない美徳を見出だすことになる。
(…)以上のことはすべて、ビーバーがこの植民地の商業的繁栄に寄与するところのものです。我々が彼らのうちに認める勤勉さ、計画性、協調性と従順さ、そして獣が経験するとは思いもよらなかった甘美さをたたえる快適な環境を、自ら設えることへの意欲――これらすべて、聖書が怠惰な者に対して送るアリの例よりも優れた教訓を人間に与えるものです。(Charlevoixの書簡、リンク先注20)
現在では、"work like a beaver"という慣用句として定着しているくらいに、ビーバーは働き者の象徴とみなされている。その例として経済学に名高いロンドン経済大学の紋章にビーバーがあしらわれていることは有名であるが、17世紀以前に作られた紋章には、このような使い方は認められない(注4)。勤勉さの象徴としてのビーバーは、実は上に述べたように、アメリカビーバーの発見と軌を一にして作られてきたと考えられる。去勢という非常にアレなイメージを植え付けられてきたヨーロッパビーバーにとっては、まったく不憫な話である。
まとめ
英語で beaver を引いてみると、「ビーバーの毛皮」「ビーバー帽」といった説明にまじって(俗語)「女性器、陰部」のような説明があることに気づくかもしれない。ここまで論じた以上は言及しないわけにもいかないが、ビーバーにはその勤勉さの裏腹に、性的なイメージがつきまとっている。ビーバーの毛皮帽そのものを beaver と呼ぶことと同様に、こうしたイメージも(陰部と間違えられて)香嚢を刈り取られてきた歴史と無関係ではないだろう。
香料原料になる動物というのは6種類しか知られていない。その代表格であるジャコウジカ(ムスク)の麝香をはじめ、アンバーグリス(マッコウクジラ)やジャコウネコ以下、ほとんどが合成香料に置き換わりつつある。カストリウムの香料も同じような状況にあるが、現在でも香水や食料品として用いられている。もしカストリウムの香水や北陸製菓のビーバーを見かけることがあったなら、絶滅寸前から復活したビーバーの歴史に思いをはせてあげてほしい。
締めの代わりに提供する音楽は瑛…ではなくPrimusのWynona's Big Brown Beaver(ウィノナちゃんのおっきくて茶色いビーバー)という曲である。洋楽には詳しくないので細かい説明はグーグル先生にお尋ねいただければよいと思うが、この Beaver の意味については皆さんの想像にゆだねたいと思う。
注釈
注1:ちなみに、この fiber こそラテン語の元々の「ビーバー」であり、ゲルマン語系の beaver と同源と考えられている。
注2:この説は眉唾な感じがしなくもない。おなじみのWiktionary先生によると、サンスクリット語でकस्तूरी カストゥーリー は「ジャコウジカ」を意味する。ジャコウジカの睾丸からとれる麝香(ジャコウ)は薬種として用いられてきた。また、古典ギリシャ語のドーリア方言では κάστον カストン は「木材」を意味する。
注3:ちゃんと確かめたわけではないが、時代を考えればたぶんアタナシウス・キルヒャーだろう。古代エジプト語の系譜を引くコプト語をヨーロッパで初めて研究してヒエログリフの説明を試みた人物だが、独自の解釈に終わっている。
注4:これ以前の紋章に登場するビーバーの多くは、例えばBeverlay家(Beverとbeaverを掛けている)のように、ビーバーを駄洒落として用いたものである。江戸時代の判じ絵のようなこの方法を紋章学ではcanting armsと呼ぶ。(参考:Heraldic Beavers、The Beaver in Heraldry)
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