年長者の話が長いって話

入学式での校長先生からのお話、成人式での市長祝辞、運動会のPTA会長挨拶など、「大人からのメッセージを聞く」といった機会はこれまでの人生の中で数えきれないほどあった。

私たちよりも経験が遥かに多く、様々な成功や失敗を経験しながら大変な地位を築き上げた大人達が、未熟な私たちが未だ知り得ない知識や考え方を共有すると共に、『これからどうすれば良いのか』『何を考えて行動するべきか』といった指針まで示してくれる、大変貴重な機会である。

が、その中で記憶に残っているものは殆ど無い。なんなら皆無だ。何も覚えてない。
しかも、話が終わった直後のことである。
聞いたのが何年も前だから、といったような時間経過によるものではない。

なぜ、こんな悲劇が起きてしまうのだろうか。
最近、自分の考えをアウトプットする機会がめっきり無くなってしまったので、リハビリがてら個人的見解を好き放題述べようと思う。

①長い

タイトルにも書いたが、一つ目の要因は話の長さにある。
年長者が私たちに向けて何かを話す時、それは往々にして我々の予想を遥かに超えた超大作となる事が多い。
その豊かな経験と知識により、話の起点から結論に至るまでの間に幾度となく寄り道(脱線)が発生することで、必要以上の時間と情報量が私たちのキャパシティを超えるという事態を招く。

私たちに対して言いたいこと、伝えたいことが沢山あるのは本来とても喜ばしいことで、我々はその話から得た情報を自らの血肉として今後の人生に生かしていくのが理想的な姿である。
私達よりも一段高い場所から鼻を膨らめてあれやこれやと説教をしているそこの年長者も、そういった期待のもとで私たちに話をしてくれているのだろう。

しかしながら、人間が一度で記憶することができる情報量には、思っているよりも限りがある。
ワンタイムパスワードが4桁ではなく6桁になるだけで、ちょっと不安になってブラウザとメールアプリを行ったり来たりする愚かな生物、それがホモ・サピエンスである。
そんな私たちが、一度限りで終わりの見えない、しかもそんなに面白くない長話を覚えていられるはずが無い。

彼らの話を記憶に留めておけないのは、ある意味で当然の話と言えるのである。

②興味が無い

「それを言っちゃあ、おしまいよ」と寅さんに怒られそうな見出しとなってしまった。
そもそも、みんなその話に興味が無いのだ。

人間の集中力とは不思議なもので、自らが抱く興味関心によって集中の強度には大きく差が生じる。
尻尾まで切ったものの既に2乙してしまいもう後が無いアマツマガツチとの初見戦闘中においては、瞬きもせず呼吸も忘れるような比類なき集中力を発揮する我々であるが、端から興味の無い校長先生の話など5分もすればクエストリタイア、右から左である。

そもそも「年長者の話」それ自体が私たちをその会に出席たらしめている主な理由では無い、ということにも着目するべきだ。
自分の人生の節目を迎える機会だったり、年中の大きな行事であるからという理由で仕方なく出席しているだけで、好きなお笑い芸人が出演する公演を狙ってチケットを購入し、電車を乗り継いで足を運んだ漫才劇場で能動的に漫談を聞くのとは訳が違う。

場のコンディションからして、話者にとっても既に不利な状態でのスタートとなっているのである。

おわりに

まとめると年長者の話というものは、私たちにとって主たる目的でもなく、ことさらに興味があるわけでも無い、終わりどころの見えない退屈な長話となる事が多い、ということになる。
そのためそんなもの覚えていられるわけがないし、そもそも真面目に聞くことすら困難なのだ。

もちろん、興味深く魅力的な祝辞や挨拶を披露してくれる人に出会うこともある。
しかしそれは希少価値の高い体験であり、そんな素敵な機会は片手で数えるほどしか無い。
今回の話については、一般的にこういう事が多いよね、という程度で享受していただきたいと思う。

このように、「年長者の話が長すぎる」ということについて皮肉にも長々と述べてしまった訳だが、最後に私が唯一覚えている「年長者の話」を紹介して、終わりにしようと思う。
それは私が高校生だった時のある晴れた日、週に1度の全校朝礼にて、その週の朝礼当番だった地学の先生が話してくれたものだ。
それは今までで1番短く、あまりにも印象的な一言だった。

「今日は天気が良い。折角なので休み時間は皆外で過ごすように。以上。」

こんな感じだった気がする。
あんまりちゃんと覚えてない。
やはり人間には6桁程度が限界だ。

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