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埴輪が語る力士、「おさげ」のルーツ

  

◇◇鳥追観音の「なで仏」◇◇

西会津町野沢の鳥追(とりおい)観音・如法寺(にょほうじ)は、徳一によって建立された古い寺だ。観音堂の「身代りなで仏」をなでで祈願すれば、ころりと大往生が叶うというので「ころり観音」とも呼ばれている。

 私はこれまで三度この仏様をなでたが、いつもその姿が不思議でならなかった。頭部や両腕は失われ全体が朽ちているものの、下半身には強靭なパワーを感じるのである。

如法寺「身代りなで仏」

『西会津の指定文化財』(西会津町教育委員会、令和4年)を取り寄せると、このなで仏は、平安時代後期の作で、ケヤキ材の一木造り「金剛力士立像」だとわかった。
金剛力士は仁王(におう)とも呼ばれ、お寺の門の左右に立って邪悪なものの侵入を防ぐ守護神のことだ。
如法寺には、なで仏に関する『角力(すもう)とり仁王(におう)』というユニークな伝説があるというので、西会津町教育委員会に問い合わると、生涯学習課の濱田氏が『西会津ふるさとの伝説』に収められたその伝説を送ってくれた。

江戸時代のことだ。日暮れ時に如法寺へ登る坂(如法寺坂)にさしかかると、突然、筋骨たくましい仁王がおどり出てきて角力を挑んでくる。
男たちが毎晩投げ飛ばされるようなことが続くと、夜は誰も通らなくなった。
業を煮やした里人たちが、如法寺の僧とともに仁王を探し回ると、観音堂の床下で昼寝しているのを見つけ、大勢でこれを縛り上げて、観音堂の天井裏に封じ込めてしまったという。

近年の調査で、観音堂の天井から、顔が欠け埃にまみれた古い仁王が発見されたが、この仁王は、仁王門内に最初に祀られた双体のひとつだった。
傷みがひどいため新たな仁王が祀られると、この仁王を床下に入れてしまったのだという。

伝説の筆者は、「そうした不満、あるいは自由になった気安さからか、いたずらの角力とり仁王と化したのである。不運な仁王というよりは、ユーモラスな仁王であったことがおもしろい」と締めくくる。

土地の人は、その古い仁王の気持ちを察して、ご苦労様でしたと話しかけて、なでたりさすったりしたのだろうか。
その昔、いたずらの角力とりになって憂さを晴らした仁王様も、今では浄土へ導くありがたい仏様として生まれ変わったというワケだ。

如法寺「仁王門」

 ◇◇相撲の起源◇◇

相撲に似た格闘技は世界各地に存在する。
どこが発祥かを特定することは難しいが、日本での相撲の起源は古事記や日本書紀に記されている。
それは、①古事記の国譲り神話に見られる建(たけ)御名方(みなかた)神と建(たけ)御雷(みかづち)神との闘い、②日本書紀の垂仁天皇の段に見られる野(の)見(みの)宿(すく)爾(ね)と当麻蹶速(たいまのけはや)との闘い、③日本書紀の雄略天皇の段に見られる女相撲、のことだが、①と②はよく知られ、とくに②の話は戦前は教科書にも掲載されていたという。(『相撲の誕生』長谷川明著)

私は2018年秋に、②の舞台となった「相撲神社」(奈良県桜井市穴師(あなし))を訪れたことがある。
三輪山(みわやま)の麓で、出現期最大の前方後円墳「箸(はし)墓(はか)古墳」からは東へ1キロの場所である。

相撲神社 奈良県桜井市

日本書紀にはこうある。大和の国当麻(たいま)村の当麻蹶速(たいまのけはや)は怪力の持ち主で、自分より強い者はいないと豪語していた。
これを聞いた垂仁天皇は、出雲から野見宿禰(のみのすくね)を呼び寄せ蹴速と相撲を取らせると、激しい戦いの末、蹴速は命を落としてしまう。
蹴速が持っていた当麻の地は宿禰のものとなり、宿禰は垂仁天皇に仕えることになるが、この力比べが国技相撲の発祥とされ、日本初の天覧相撲ともいわれるのだ。

◇◇形象埴輪の起源◇◇

その頃、主君の死を追って臣下たちが死ぬ「殉死(じゅんし)」が行われていた。垂仁天皇の弟である倭彦(やまとひこ)命(のみこと)の葬儀の際に、臣下を陵墓のまわりに生き埋めにしたところ、数日間も死なずに昼夜泣き続けたうえ、その死後には犬や鳥が腐肉を漁り始めたという。
天皇はたいそう気に病んでいたが、それを救ったのが野見宿禰である。

出雲国から土部(はじべ)100人を呼び寄せると、埴(はに)(黄赤色の粘土)を用いて人や馬などの土物(はにもの)を作り、これを生きた人に替えて陵墓に立てることを提案すると、天皇は大いに納得した。
日葉酢媛(ひばすひめの)命(みこと)(2番目の皇后)の葬儀の際には、この土物を陵墓に立てることにしたという。
これが“形象(けいしょう)埴輪(はにわ)”の始まりとされるエピソードである。

垂仁天皇は、野見宿禰に「土部(はじの)臣(おみ)」の称号を与え、天皇の葬儀は代々「土部連(はじのむらじ)」が司るようになった。
古代豪族「土師(はじ)氏(し)」は、高い土木技術力を持ち古墳の造営や葬送儀礼に関わったが、その祖とされる野見宿爾は、先述のとおり相撲の元祖としても有名な人物なのである。
(垂仁天皇と野見宿禰の時代には違いがあるが、ここでは言及しない。)

◇◇力士埴輪◇◇

埴輪は大きく2種類に分けられる。
早い時代から作られた 「円筒埴輪」(土管に似た形)と、家屋と鳥や馬などの動物、そして人をかたどった「形象埴輪」である。

今年の夏、久しぶりに福島県立博物館を訪ねると、特徴的な姿の人物埴輪が数多く並んでいた。
出土したのは「原山1号墳(西白河郡泉崎村)」。5世紀末頃に造られた全長22m以上の前方後円墳で、県南地方を治めた有力者の墓だと考えられている。

一番目立つ場所に展示されていた「力士」「盾を持つ人」「踊る人」は、高さが60~70センチほどの大きさである。

左から「力士」「盾を持つ人」「踊る人」(福島県立博物館)

「力士」の姿は横綱の土俵入りを思わせる。
力士の行う四股(しこ)は、片足を高くあげ強く地を踏む所作だが、もともとは邪悪な霊を踏み鎮め、大地の神に豊作を祈願する儀式だという。
この埴輪は、土地の発展を願って作られたのだろう。    

「盾を持つ人」は、いかめしい顔つきで頑丈そうな盾を持っている。
おそらくこの古墳の番人の役目を負っていたのだろうが、力士像と並んで立っていたというからおもしろい。
力自慢の力士と一緒にいれば、まさに最強タッグである。

「踊る人」は右手をあげた男子の上半身像で、踊っているような姿からその名がつけられたが、近年、手綱を使って馬を引いている姿だとわかった。
頭には台形型の冠をして、さらに鉢巻を結んでその冠を固定している。(参考:福島県立博物館ウェブサイト、ふくしまのはにわ~原山1号墳)

ところで、この「踊る人」の髪型(左右に垂れ下がっている)に注目したい。これは「美豆良」(ミズラ・ミヅラ)という髪型を表現している。

古墳時代から奈良時代の男性は、髪を左右に分け、耳のあたりで先を輪にして束ねた髪型をしていたと考えられている。
古事記にも、イザナギやスサノウの髪型が美豆良だったと記されているが、吉野ヶ里(よしのがり)遺跡(佐賀県)で出土した耳の部分の巻かれた髪が、成人男性のものだとわかり、弥生時代の成人男性の髪型も「美豆良」だということが明らかになったのだ。

◇◇美豆良の起源◇◇

男の「おさげ」ともいうべきこの髪型のルーツはどこにあるのだろう。

筑波大学の名誉教授を務めた増田精一氏は、中国・清朝時代の女真族(じょしんぞく)の髪型「弁(べん)髪(ぱつ)」に限らず、古代中国をおびやかした遊牧民「五(ご)胡(こ)(4世紀初頭から約1世紀半興亡を繰り返した北方系5民族)」は、おさげ髪だったという。
ミヅラとは「耳に連なる」という意味の他に、「美面(みづら)」(いい顔)の意味がある。おさげ遊牧民のモンゴル人たちは、彼らのおさげを「クク」「ケク」と言ったが、それは「いい顔」の意味だという。

増田氏の話は、ミズラのルーツが中国大陸にあることを示唆しているが、東北大学名誉教授の田中英道氏は、さらに西方に注目する。
ミズラは古代ユダヤ人の髪型(耳の前の毛を伸ばしてカールさせる“ペイオト”)にきわめてよく似ているとしたうえで、古代豪族「秦(はた)氏(し)」の祖はユダヤ人だったと指摘するのである。(『ユダヤ人埴輪の謎を解く』)。

千葉県の芝山古墳では、鍔(つば)付きの帽子とあごひげ、そしてミズラという3点セットの埴輪が多く出土するが、これはまさにユダヤ人の姿だという。
初めにこのような人々が西方の優れた技術を携え日本へ渡ると、その子孫(秦氏)も技術者集団として日本各地の開拓事業に携わったと考えることができる。

日本書紀によれば、秦氏の祖先は百済からの渡来人「弓(ゆ)月(づきの)君(きみ)」で、応神天皇の時代(5世紀初め)に120の県(こおり)(1県=百人)の人民を従えて移住したとある。
この人々は確かに朝鮮半島を通って日本へ渡ってきたが、そのルーツはもっと西方にあるという説である。

秦氏自身が、秦の始皇帝(紀元前3世紀)の末裔だと語ったのは、権威を高めるための作り話とされることが多いが、なにより始皇帝自身がユダヤ系の一族だった可能性もある。

始皇帝の父親は鼻が高く西方の人だったという説もあるほどで、シルクロードを使った当時の広範囲な東西交易を思えば、あながち荒唐無稽と切り捨てるわけにはいかないのである。

人物埴輪は殉職者の代わりに製作された。従ってその姿は、古墳の主に近しい人たちを表現していると言えるだろう。

「琴を弾く人」(福島県立博物館)

福島県立博物館に展示されていた人物埴輪には、さすがにユダヤ人の姿はなかったが、先述の「踊る人」の他に、「巫女」「琴を弾く人」「楽器を弾く人」などはミズラの髪型をしていた。祈りと音楽で古墳の主を弔う儀式を表現したのであれば、それは遠く西方から渡って来た集団に共通した思いがあったのだろう。そう考えれば、土俵入りの姿をした「力士」にも、おなじルーツを感じてしまうのである。


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