日々のさえずり5
昨晩、はじめておでんをつくった。
わたしはおでんがあまりすきではない。正確に言うと(実家で食べる)おでんがあまりすきではない。薄くぼんやりした味で、それをおかずにご飯を食べろと言われることが昔からものすごく苦痛だった。しかも一度にたくさんつくるから、2日間その苦痛が続く。そのせいでおでんに対するイメージが悪くなり、進んでおでんを食べることがないまま大人になった。社会人になった頃、はじめて静岡おでんを振る舞っていただいたことがあり、こんなにおいしいおでんがこの世にあるなんて!と心底びっくりした。全国さまざまなおいしいおでんがあることに、ようやくこの時気付いたのだ。
昨年末に出汁をとることをはじめて間もなく「この出汁でおでんをつくったら、おいしいかもしれない」と思った。もしかしたら「おうちおでん」のイメージが変わるのでは、と。こういうとき、無性にわくわくしてしまう。
それで昨晩の話に至る。大根・こんにゃく・タコを下茹でし、厚揚げやさつま揚げなどは油抜きをする。ゆで卵も準備して、2リットルの出汁をとり調味料を加え、使ったこともないような大きな鍋にくずれにくい具材から詰め込んでいく。あとは1時間ほど煮込んで一晩おくだけ。
途中不意に不安になった。目の前にある6人前ほどの大量のおでんが、もしあんまりおいしくなかったらどうしよう、と。今もすこし不安だ。けどやっぱりわくわくもしていて、今日は1日中晩御飯をたのしみに過ごしている。
自分が写った写真をSNSに載せることに対して、相当慎重な部分がある。実際これまでは手元や足元など身体の一部が移った写真しか載せていない。何分インターネットの普及とともに成長してきたので、匿名性の高いアカウントにおいて個人情報をどこまでオープンにするかという点について割とネガティブに考えている節がある。
それとあとひとつ、自ら匿名性を高めているのだから、わざわざ自身という枠を提示することは他者にとっても自分にとってもマイナスに影響する可能性が高いと思っている。
にも関わらず「お題道具の写真」で自身の結構な割合が写った写真を載せている。モノクロだし、顔もわからないし、1年ほど前の写真だから外観の雰囲気も随分変わったので許容範囲内と思ったからなのだけど、すこし勇気がいる行為だった。あの写真を載せた理由のうちひとつは、わたしにはまだ「自分自身」が「道具」であるか否かの判断がついていないこと。そして写真を撮影した場所が、地震の影響でおそらく今年の春は立ち入りができないだろうから。桜と雪柳がとてもきれいな場所で、誰かの目に少しでも留まるとうれしいなと思った。
そんな風に、「みてほしいな」「知ってほしいな」と思うことが増えた。いや、増えたというか、元々思ってはいたけどいつでも伝えられると思っていた。そのため優先順位は低くて、思っていないと勘違いしていた。ずっと思っていたことに気付いた、のだ。だから以前に比べてやたらとnoteを更新している。
「写真には何もできない」と思ってしまった瞬間が何度もあった。あくまで個人的な意見だけど。わたしの写真はわたしひとりのことすら救ってはくれない。そう思ってしまったという事実がカメラを持つたび思い起こされてしまう。ただ、正しく言うとその一文の主語は「写真」ではなく「わたし」なのだ。「わたしには何もできない」。それに伴って写真にも何もできない、が連れてこられてしまった。そしてたぶん「何もできない」を知ってからがはじまりなのだ。というか、はじまりであってほしい。じゃあどうする?と自分に問い続けて進むために。何もできなくても生きていくように、何もできなくても撮り続けていくから。
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