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まっすぐな瞳で見つめられるとき

彼はその日、出会ってから数えて、
何度目かの、まっすぐな瞳で私を見つめて
対話した。

御免なさいと言った。

真っ直ぐな瞳は、
プロポーズの時と、「精神科に行ってくれ。でないと離婚する。」と言われた時。精神科受診の際は一人で行き、一人で子供の預け先に奔走し、一人でカウンセリング代9000円支払い、一人で自立支援の手続きを取った。育休中で給与なしだった。1年目の手当はでていたが。それでも大黒柱、「双極性障害」の診断名である。気が付くと結婚後の預金すべてなくなった。結果、保育園入園が付いてきた。まあ、ついてきたと言っても探して探してさがしまくって、アテをつけていたところが、診断名に背中を押され2年早まったという見方もできるが。おかげで祖母の入院の手続きやら介護やらなにやらの負担がだいぶ減った。結局、やってのけた。やる人というかやれる人がいないのだ。社会的弱者のキーワードを、網羅できる実家なのである。だからこそ、断れない。うまく相手に自分の気持ちを伝えられずに人生の折り返し地点が見えるところまで、きてしまった。

ただし、医者の見立てはなかなかのもので、なるほど、
子どもから離れたことで、頭の中のざわざわ感や、
先読み×100くらいの完全完ぺき主義は
もはやどうでもよくなってきたかも、くらいのところにいる。
先読み×100のときは、
 とにかくメモ、手帳にすべて書く、仕事はこまめに進める、で
仕事も進む、実家のお世話も進む(社会的資源の支援が必要な人×2の高齢セットをどうやって遠距離でお世話をするのか、支援者とのやりとりと本人たちの意思確認など)、すべては「思い」通りであった。
たぶん育休中に病気発覚して生活ペースについて考えることがなければ、復帰後はとっくに燃え尽きていただろう。今はペース配分を慎重にしながら、必要以上のメモは取らないようにして、机は乱雑、日々目の前の仕事に集中して先のことは考えられないが、不思議と回っている。

 過去の仕事や実家のことについて振り返るとき、他人とのやり取りの中に「私自身の思い」を挟み込む余地はなかった。高齢者や精神疾患の年上の親戚など、姪や孫のことなんぞおむつ時代から鼻くそ程度しか成長していないと思っているようで、私が介護や福祉の一般論や常識を伝えたところで聞く耳を持たない。そうした人々にも新たな、必要な生活についての言葉を届けようとするならば、専門職の言葉が一番いいとわかったのだった。

ちなみに、旦那に「精神科にいってくれ。でないと離婚する。」と言われた時点で彼は私から7桁金額の お金を借りている。返済され、そしてまた必要になる。
私の感覚からするとそのような話は通常お金をきれいさっぱり清算してからするもんじゃねえのかよふざけんなこのやろうといったところである。

視線を合わせない、は旦那の話。
そのほか日常は、話しかけようとも視線が合わない。
人のことなんだと思ってるんだ。
「人の目を見て話しをしてほしい」と言っても聴かない。
「今◎◎をやっていて手元を見ないといけないから」とか言われる。
次元がちがう。
何かやっていようといまいと、
人と話すときは相手を見るのが基本だろうが。
何も私は昼間体験した仕事の愚痴とか、自分の話を目を見て聴いてほしい!と
言っているわけではないのだ。
子どもやお金や家のことなど、お互いの生活にかかわることなのに。
……あ…お金も家も、自分には振ってくれるな関係ないぞ!!という気持ちの表れなのかもしれない。…たくよお。


しかし今回は、頼まずともまっすぐに私をみて、

御免なさい
といった。
そしてすぐに、私が口を開く前に肌着一丁ふろあがりの娘にかけよりながら話を終わりにしていた。
自分の話だけかよ。
ごめんなさいを言えただけマシだけど、言った後が大事だろうよ。
…というようなことを伝えた。以前は逆切れ大魔王だったが今回は
戻ってきた旦那。

さて、ことの顛末とやら。
何度も言っている、やっている、
旦那がなにかする→私が苦労する、バカをみる図式シーズン18くらいだった。

洗濯干せばいいんでしょう、といって、肩が上がらなくなって通院をしている私に夕方の家事育児をまるなげしといて、洗濯物干し放題まつりである。手が届かねえよ。あったまきたので、旦那の衣類を湯船の真上に残してあとはなんとか移動した。
少し考えれば干す場所は他にもある。(つくればだけど。)
以前にはモノもそろえて「こうしてね」といったのだったが
いつの間にやらなし崩しでいまはもう
リビングの片隅の机の上が洗濯物の山で
この中から子どもたちはトレジャーハンターさながら、ぱんつや下着を見つけ出す。
脱衣所には子どもたちの下着専用の棚の一角にかごを置いているのだが。

ようするに、時間がないと言いつつもすべて行き当たりばったり、
面倒くさがり屋(たぶん、気づいていないか見ぬふりしているから言ったら逆切れされる系)が相まって、そのうえプライドや自分のペースでやりたいのが複合的に絡み合って、
奥さんや子どもと話すときは視線を合わせることの必要性が学べていない。子どもに指示をするときもその通りだ。
誰が言うこと聞くかよ。

ああ、話がまたずれた。

私はその日、メールでさんざん
「これはDV発言だよな。」といった内容の決して人さまには聞かせられないような暴言の数々をしたためたメールを
旦那に送り付けた。

だってじゃまなんだもん、お風呂場の洗濯物が。
そしてお風呂の残り湯25センチだけのこして何をしろと。それなら
頼んでおいたキッチンの敷物をポンプでくみ上げで残り湯で洗って放置でも

100万倍うれしいっつうの。

これ、旦那は家族だから、暴言メールをするのか、
それとも
旦那(がこのザマ)だから、せざるを得ないのか。

いろいろな本に書いてあったけれど、
「お願いするときは、下手に出て」とか
「旦那さんを育てる気持ちで」とか
あって、
はじめのうちは
「私のやり方が悪かったのかなあ。旦那にうまく伝えなきゃ」と思ったこともあった。
だが、
大黒柱もやって(しかも大した太さもない)旦那も育てて家事育児しきってってなったら旦那一人勝ちで、お得過ぎだろう。
「それでもしかたないよね♡」と言えるような何かは見つからない。
星の王子様に
「大切なものは目には観えないんだよ」と言われるかもしれないが
その途中でメンタル及び腰を死なないけどなかなかな高レベルの衝撃でやられている。

最近思う。
他のふつうの夫婦のやり方で旦那に対応していたら
たぶん
人生終わりごろになってるよな。

私が全力で

NOを言う
ダメ出しをする
そこが嫌だということで
旦那が変わる。

以前は一般的な「愛」の目で旦那を見たり対応することがあったが
(遠い昔になってしまった)
変な話
そうすると「図に乗る」と言えるような状態になるようだった。


いつか、わだかまりや心のしこりのない状況の時にも
まっすぐな目で見つめてちゃんと話をして欲しいと思う。

ちなみに、褒められるようなことがあるときは
子どもを通して「パパ◎◎してくれたんだって!すごいねえ!!」とほめている。

子どもの性格が歪むだろうか?