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月曜モカ子の私的モチーフ vol.185「ハイパースペック母」

わたしの大きな悩みの一つに母親のスペックが高すぎて、
自分がただただチンケに思える、という悩みがある。笑。
まず体力。母はとてもタフである。そして緑の手を持っていて植物や動物とかと通じている。さらにエモーショナルクオリティがとても高くて、ややこしい対人&家族問題を上手に解決するし、その上人道的である。しかし別にお堅くない。(「相手が多くお釣りを間違えた時はわざわざわ言わへん。なぜなら相手の間違いやから」というような持論も持っている。)

さらには危機回避能力がとても高い。口も堅い。そして金銭的にも十分すぎるお金を自分の手でちゃんと稼いできた。祖母や大叔母や叔母などクセ強めの家族のケアを常にしているが煮詰まって「わたしばっかり大変・・・」とかなることもなく自身のライフも楽しんだりするバランス感の良さもある。
そんな具合にもはや無敵なので、母といると自分がしごく「ろくでなし」のような気分になってしまう。つまりわたしが出来なくて母が出来ることだらけ、なのに、母が出来なくてわたしが出来ることというのが、ないのである。

いやいや文章能力あるじゃない、と思う人もいるかもしれんが、母は時折、数行のテキストメールで、驚くほど情緒の凝縮した神がかった短文を家族に寄越してきたりする。シンプル、だけど深い、沁みる、与謝野晶子をソフトにしたようなやつ。じゃあIT系は? それも年齢の割には結構使いこなしていて、最近ではair podを購入、それを耳に入れながら運転し、Siriをタップして起動して電話をかけてきたりする。
                          
そんな数多ある母のスペックの中で最もわたしが困るのが母の体力なのだが、どう困るかというと、母曰く「ママは別に取り立ててタフじゃない」「というか全然タフじゃない。必要に迫られてそうなっているだけ」と言い切られてしまうところ。なので自分が虚弱であることも“単なる努力不足なのだ”という気分になる。てかそうやろ、実際。と声が聞こえてきそうな感じ。
(なので3日ほど母と過ごすとわたしは次の日起きられなくなり、祖母の家に宿泊した際には微動だにせずに14じまで寝て88歳の祖母に「あんまり起きてこーへんから死んだかとおもて…」と言われてしまった。)
                          
先月は母と過ごすことが多かったのだが、母が楽しいことをいろいろ詰め込んでくれて、一緒に “ミッションインポッシブル“ を観に行った後、そのまま買い物でもして祖母の家に行こうというので「ちょっと疲れたからすこし休みたい」と言うと「あんた、仕事もせんと人のお金で映画見て遊んでるだけでそんな疲れててどうすんの(アホちゃう?的な感じ)」とバッサリ斬られて、「(先月入院しておりただいま静養中・・・)」という言葉は発言の機会を失った。もっともすぎて刺さるし・・・。

                          
そんなこんなで9月の中盤、母のスペックに押しつぶされそうになったわたしは和歌山の洞窟温泉でライターの妹に「わたしはどうも母の娘として失敗作みたい」「だけどわたしなりに精一杯やっていてこれ以上はもう頑張れない」と相談してみた。そしたら妹が「モカちゃんがそうなっているのは“追い込み”のことやと思うけど、あれは無意識やし、家族全員に平等やで!」と励ましてくれて、笑、わたしは「え? あの追い込み、わたしにだけじゃなかった!?」と思ってよくよく家族を観察してみると、確かにわたしだけじゃない、あんなに働いて稼いでいる父はおろか、ベスフレや、ただまったりと生きている飼い猫に対しても、母からのそれなりの追い込み(本人としては至って普通に言ってるけどそれが普通にできない人からしたら追い込まれることーーー例えば父は野菜が死ぬほど嫌いなのだがちょっとは食べなあかんと強く言いすぎて父が“つらぃ…”と言い出す、など(笑)――が見受けられるのを見て、わたしは妹の言う通りだわと少し安堵して、母のスペックに対応できていないのはわたしだけじゃないみんななのだと思うことで、そのスペックに恐れおののくことがずいぶんなくなったのだった。
                          
人は普通認められたいと思う。だから褒めてもらえないと否定されているのかなと思ってしまう。母は日常の中で「よく頑張っているね」ということを基本的に娘にわざわざ言わない。言わないどころか入院中に「ちょっと諸々努力不足なんちゃうかな」と言われたりするのだが、笑(オ・イ・コ・ム〜・・・)
その原点に彼女自身が誰かに認めてもらおうと思って生きていないというライフスタイルがある。父がどれだけ稼いでも母はその収入に根本的には期待していない。期待していない、というのは相手を認めていないわけはなくって、依存していないのであるが、その結果「いつか**したるわ」とか父が言っても「いつか? あてにしてない。今してくれ」みたいな感じでバッサリ斬られてしまう。
父も母に認めてもらたくて自分がいかに凄いかを自己申告するのだが、母は大して聞いていない。(どころか自慢しぃでヤになるな、とか言ったりして全然真意が伝わっていない)
わたしもわたしなりに頑張っているつもりなので「よくやってるね」とかたまに言われたいのだが
「わたしに何を期待しているの。わたしに頑張ってるねと言われないと頑張れないのか」「そもそも相手が自分に対して思うことなんて人が支配できないもの」という最もな言葉をパスン、と放ち、わたしや父は玉砕してしまう。
母は独立独歩の人なのである。

とりあえずその後「アンポンタン」はわたしだけじゃない、ということで少し救われたわたしは、9月の終盤にわたしの希望で、滋賀の神社めぐりに母に付き合ってもらったのだが、そこで発揮された母のスペックが凄まじすぎて、もはや自分と母のスペック差を洞窟温泉で取り上げたこと自体が愚かしく笑うしかないことであったように思えた。母はもはや博士レベルだった。

                          
アラビア以降、神社に関しては掘り下げているつもりのわたしが(幼馴染という博士も手前にいたが)何かエピソードを「教えてあげよう」と思って母に話すと、それに一回り奥行きがついた感じで「それな、こういう話もあんねん」と返ってくる。琵琶湖の橋向こうを昔は「西江州(にしごうしゅう)」と呼んでいたことや、「いそがば回れ」は琵琶湖のことを言った言葉であることそしてその理由、
ひいては「やぶ医者って、ダメな医者のことじゃないんやで。昔“やぶ”っていうところに名医がたくさんいてな、それで大したことない医者も俺は“やぶの医者や”って嘘ついて名乗ってん。だから“やぶ医者”って、やぶの医者じゃないのにそう名乗っとる医者のことや」とかいう滋賀でもない逸話まで教えてくれる。

                                    
最近手塚治虫に再度はまっているので滋賀に帰省するなら「火の鳥」の太陽編に出てきた犬上郡の神社に絶対行きたいと思い、いろいろ調べてまず最初に「多賀大社」行きたいというと
「そこやったらお父ちゃんと毎年初詣行ってたで」と言うし、
その「お多賀さん」の奥の宮と言われる「調宮神社(ととのみや)」に着いたおりには、偶然通り掛かったおじさん(孫を迎えに来ていた)にいろいろ聞き込みをし、
「イザナギ(男神)はあの向こうの三本杉に降り立たはって、そのあとこの調宮神社で身なりを“調え”はったたしいわ。だから“調宮(ととのみや)神社”て言うらしい」
と情報収集力も抜群、
そのあと「イザナミ(女神)」はもっと山奥に神社があるのだけど・・・、と教えてくれたおじさんが、そやけど台風あけで土砂崩れ起きてるかわからんし、ほぼ獣道みたいな山道を「よう行けとはいわんな」とおじさんが言った神社についてわたしが母に「どうする?」と聞いてみると(運転するのは母なので)、
「そんなんここまで来たら今日行っとかなもう行く機会ないやろ」
とハンドルを切り、ブイーンとアクセルを踏んでスタート、勇気も行動力もある感じ、笑。母は別に神社が好きなわけでもないのに、その瞬間もはやこのプロジェクトの主任であった。

(調宮神社の巨石と母。「火の鳥」では狗族(くぞく)という土着の精霊たちが、異教の霊たちによって攻撃されて石にされてしまう。ここはまさに狗族たちが住んでいた犬上郡。この巨石たちはもしかして・・・)

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実際その山道はとんでもない山道でもう本当にちょっとタイヤを踏み外したら、崖から落ちちゃうような道で、結局先がどんどん細くなり行き詰って、熊も出るとのことで、さすがに引き返したのだが、その引き返すポイントに行くまでもかなり壮絶な山道を、「あー見えへん、見にくいな」と額をフロントガラスにつけるような具合になりつつも、うねうねしまくる山道を「あ、こわ♪」程度の恐怖心でレーサーのごとく母は走り抜けた。信楽から家に戻る際は、もはや灯り一つない、地元の抜け道をしゅいーんと15分ほど運転し、カーナビが黙りこくるほど。「あ、もう大通りにでるで」と母が言った数秒後にカーナビはようやく、
「次、左です」と発言した。

                                    
最終的に、スピ系のサイトで調べに調べた、不思議な巨石の鎮座する秘境の神社に着いた時に「あれ? ここ来たことあるよ」と母が言い、そこでわたしは完全降伏した。母、スペック、高すぎ。
なんでこんな神社まで知ってるん?
博士すぎるやん。しかも持ってるタイプの人やん。
もう無理やわ。わたしにできることないわ。
その夜それを妹と電話で話してたら妹は
「そやろ。我らの母やばいやろ。勝てねえ。勝てるもん、なんもねえ、ってなるやろ」と言っていた。

                                    
ハイパースペック母はもう、宇宙人に近い。
宇宙人はイヤホン一つでSiriを手なづけるし、宇宙人は文明の進歩に対しても柔軟でてらいがない。
わたしは先日とあるモノを失くしたのだが、それはきっと宇宙人に対して自分もそうあらねばならないし、常に奮起せねばならないし認めてもらわねばならないという、呪詛の象徴のようなものだったのではないかと思う。
けれど博士型宇宙人にはちょっと勝てない。
それを身をもって理解し、呪詛は消えた。
ということなのではないかしら。

                      (イラスト=Mihokingo)
                                    
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☆モチーフとは動機、理由、主題という意味のフランス語の単語です。

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中島 桃果子 / Mocako  Nakajima
長く絶版になっていたわたしのデビュー作「蝶番」と2012年の渾身作「誰かJuneを知らないか」がこの度、幻冬舎から電子出版されました!わたしの文章面白いなと思ってくれた方はぜひそちらを読んでいただけたら嬉しいの極みでございます!