第15話 ✴︎ 「森を持つということ」By"イーディ/InnocenceDefine”✴︎2021✴︎
2022年1月10日に中盤を加筆しました🖋✨
店のことだけど、店から離れて、わたし個人のこととしても考えているから、ひとかどアーカイヴだけどトップには店の写真を使わずにいく。
年が明けました。おめでとう!と大騒ぎする気分にもなれず、ハロー2021。そんな感じです。この年賀状はDTPバージョン、そろそろみんなに届いた頃かしら。実のところ、心のエネルギーを非常に摩耗する案件が2つと、楽しいのに申し訳ない案件が1つ、年始からあって、我らが栞の誕生日をつつがなく終えた(わたしはリモート参加になった、これが申し訳ないこと)
翌日10日、なんだか非常なる倦怠感を感じ熱を測る、熱はない。が、非常に具合が悪い。
今実は滋賀にいるんだけど、それは家族にとって「急」かつ「要」な出来事があったからコロナの抗原検査して帰ってきたわけなので、体調を崩すことも実家にとても迷惑がかかること、そんなわけで、葛根湯と睡眠導入剤を一気に飲んで20じに就寝、朝までぐるっと寝ようと思っていたのに、23時に起きてしまった。23じ、モカコの活性化タイム。そのままさらに寝ようと思ったけど、体調の回復を感じ、SNSを更新したりして今に至る。元気は元気、だが、このわたしが酒を飲む気になれないのだから、やはりあまり体調はよくないのだろう。
「芸術酒場」の意味というのはいろんな角度から解釈される。音楽とか演劇とかを定期的にやってるお店、小説家がいるお店、そういう人たちがたくさん集うお店、芸術やカルチャーの話題が絶えないお店。
どういったものが芸術酒場だと一般的に思われるかはわからないけれど、経営者であり女主人のわたしは「森を持つこと」だと考えている。
簡単なカテゴリわけをしても、わたしには「同業」と呼ばれる人たちが2種類いる。一つは芸術や創作をやっている人たちで、このような世相では文化庁から助成金が降りる人たち。
もう一つの「同業」は飲食の人たち。小池百合子の会見を注視し、ステッカーを貼り、協力金を貰いながら時短営業をする。
わたしはこの2つの世界に置いてもうどちらも15年以上深く関わってきた。
そこでは棲み分けされている世界に置いての「ふつう」の基準がバラバラで、同じ定規で測ると絶対に揉める。イーディの2階には巨匠シンさんに撮ってもらった、わたしとは思えない素晴らしい写真が飾られているけれども、これはある意味、価値観の違う2つの考えをハッピーな形でまとめる共通言語と公約数として、考えに考えた結果生み出した答えに基づき生まれた素晴らしい結果である。このときは、シンさんの願いを全て叶えることができたし、わたしが無理をすることもなくなった。芸術と飲食という違う言語交換の中でいい意味の物々交換ができたのである。(わたしとシンさんの間では)そんな風にうまく解決できるときもあれば、そうは行かない難しい局面の時もある。
(※今回、心を整理しながら書いているので長いです。読み物としておもろい訳でもないかもしれんし、でも大事な出来事の記録なので綴ります。暇な方どうぞ。)
(photograph by Shin Yamazawa 2019)
芸術、という世界の中には「一般社会人としてはもうクズ」なんだけど、本当に芝居をさせたらとんでもないとか、なんかそういう人たちがたくさん生息している。つまり、芸術の世界以外では生きられないから、芸術をやっているような人である。当のわたしだって、ずっと努力を重ねているのに時間が守れず、最近りさこなどは、わたしの時間を30分後ろ倒しに考えて動いている。笑。
仮にある例で言うと、そういう子は飲食店に持ち込みをする際は持ち込み料が取られることとか知らないし、いい酒であれば「まるで良いこと」のように、持ってきて、みんなに振舞ってしまう。そして自分は今日はお酒を持ってきてあげた人だと思っているから、その日のお会計がいつも通りだとムッとしたりする。そしてわたしを応援している飲食の人たちがそれを見たら「は?」って感じになる。どれだけ店の売り上げ減らすつもり? お前もう来なくていいんだけど。そしてそれを「まあまあ」と許しているわたしにジリジリする。
あと、歌手や演奏家として活動している人がお店で弾いてもらう場合、
これはわたしは長く水商売をやってきた中で、芸術家があまりに保護されていないと感じていたから、必ず「なんか弾いてよ」とかを「あなたの任意で」みたいな感じでは済ませないようにして、飲み代やギャラと言う形で必ず表現に対する「ありがとう」をしてきた。でも今度そうすると、勝手に弾いてる場合に多少お客さんが乗り気で聴いた場合などの、線引きが難しい。
で、揉めないようになんとなく安くしていると、アーティストは飲食店というものがわからないから、それがいつもの金額みたいに思って友達とかを連れてくる、で、わたしは新規のお客さんには店の平均価格はこれですよ、と提示しておきたいからそういう日は普通に計上すると「昨日高かった」と電話がかかってきたりする。
以上を読んだアーティストの人は「わたしアーティストだけどこんな失礼なことしないし!」と思うと思うのですが、これは乖離の幅が一番広いデッドのラインの例なのでーー同時にうちで2020年起きていたことでもありますーーどうか少し怒らないで聞いて。でもこういうやついるでしょ、あなたの周りにも。わたしの知り合いの天才劇作家も、15年前、下北沢の居酒屋の閉店時間からさらに1時間「やだ帰りません」と粘って帰らなかったことがあった。「どこまで粘らせてくれるのか」を知るために帰らない。迷惑だからって引きずって店から出したよね。そんなやついるかよ、って奴がいる、確かに演劇とか、お笑い、とか、芸術とか、そういう世界には。
生息してる、どこかに。
同時に飲食まわりには「金でなんとかしてやる」みたいな人もいて、例えばピアノ弾きとかに1万円渡して、これだけ渡すんだからって、あれもこれも自分が聴きたい曲を弾かせようとする人もいるけど、それは芸術家の尊厳を1万円で買おうとしているのと同じだから、それ全然違うんですよ、っていう芸術サイドの言い分もある。弾く曲はこちらが決めるし、リクエストも受け付けるけど、それを弾くかどうかのイニシアティヴはこちらにあって、それは1万円では買えないんだよ、っていうこととかね。
中にはそういうの気にしないよ、リクエストに答えて弾くの好きだし!って言ってくれる神様のようなミュージシャンもたまにはいてくれるんだけど。
ただ、そういういろんな感性の人間が店のL字に集って、時を過ごす。
それはもう森を持つようなことなのだと思う。
森。森のように、静かなるものも、激しいものも、毒のある植物も、地を這う生き物も、静かに上に伸びてゆく樹木も、その水たまりにそっと生息するカエルも、そしてそれを狙う蛇も、抱擁して森たらしめてゆく努力。
汎用性や抱擁性の高い飲み屋の大切さを知る、でも自身は経済のフィールドで大きなお金を動かしている人とかが「モカちゃんこの店は無くしたらあかんよ」と、繰り返し言ってくれる。扱いにくい奴、難しい奴、面倒くさいし大変だけど、普通の人ばっかりがカウンターに並んでいても、きっとつまらないただの飲み屋になっていくから。そう言う人が「そういう子らの数千円やったら俺が払ったる」とか言ってくれるんだけど。
汎用性。抱擁性。そして対極にあるこのご時世のリスク。
酒場は世相を受けて確実に、どこよりも早く荒んでくるし、人と調和が苦手な気質の(とりあえず芸術家肌タイプと書かせて)人間はより調和がとれなくなり、わたしが制御できなくなる。
以下の中盤は2022年現在割愛して加筆しました。
元々は起こったことの内容について書いてあったんだけど、つぶさにここに記しておくのは相手を吊るしあげる感じもするし必要はないなあと思って。
同時に冒頭からここまでの文章には公開当初反響があったこともあり、
下書きに戻したままもアーカイヴとしては微妙かなと思い、
いま加筆修正しています。
つまり2022年の今思うことは、
「店を大切に思っている」とかいうのは言葉じゃなくて行動が全てなんだということ。あとお店を本当に大切に思っている時、それを体現できるのはお店でちゃんと支払いをするということだけだと思う。
お会計に文句をつける人は、店に来なくていいし、
支払い以外の何か、を店は望んでいない。
他の常連さんを萎縮させたり不快にさせる表現は音楽でも文化でもないし、それが店にとって有益かそうでないかを決めるのは女主人のわたしなのだということ。だって何かあった時に責任をとるのはわたしなのだから。
お会計が高いなと思ったら人はそこにもう行かないだけだし、
なんかそういうシンプルなことなんじゃないかと。
あと去年この記事を書いた時はわたし大変怒って憤慨していたのでクソカスに書きましたけど、わたしが店としての境界線をきちんと提示できてない2年があって、相手はここまで甘えてもいいんだって思ったってことなんだと思っていて、やっぱりわたしが表現活動をしている人にとりわけ”ひいきに”というか甘くしてしまった自分の過失なんだと思ってる。
2021年はほぼ常連しか入れなかったけれどそれでもいろんな事件はあって、コロナ以前は飲食店にとってお客様は神様、店がお客さんを選り好みするなんて、って世界線だったかもしれないけど、ここまで世相が行き詰まってくると、そもそもの価値観があまりに違うと同じL字に座っていたら必ず揉め事になるので、やっぱり知らない人を入れるのは、今はまだ難しい。
(↑Christmas 🎄❄️ 2021)
そんなわけで2021年に話を戻して。
わたしは一周回って考える。それでも森を、持ち続けることを、このトンデモナイ2021年という時代にわたしは邁進する?
崩壊させず森を保つことは可能なのか。
今回のことは当然大いなる勉強だし、アーティストがみんなそうな訳じゃないしその逆もある。
先日、映像畑の知人が「協力金180万とかって、80万〜100万のキャッシュフロウの店だったらぼろ儲けだな」みたいなことを言ってるTwitterみたときは、その人に悪気はなかったんだろうけどもわたしは飲食店経営者として「飲食の何がわかるの」とムカついた。
飲食店が仮に今月だけボロ儲けしたって通年でクソマイナスなんだよ。
ボロ儲けじゃなくて全部きっと2020の支払いに回って手元に残らないよ。
だってもしさ、飲食店の人間が「芸術家っていいよね、自称で名乗ってるだけで文化庁からたくさんお金もらえて」って言ったら、芸術家はそんな簡単なことじゃない!ってむかつくと思うんだ。
わたしは実際どっちもやってるからわかるけど、文化庁簡単にお金くれないよ。地元の図書館に、市から招かれて行った講演会のチラシですら”チケット代が書いてない”と受理されなかったり、えええ〜ということはいっぱいあったよ、20万円の方でも。
でも同時に、実際、飲食店にも芸術の人にも、ずさんなことをしながらお金を貰おうとする奴はいる、ってことなんだよね。
だから多種のことはさ、勝手にものを言わずに、理解を深めて行こうよ。だから結局は人間性の問題なんだと、わたしは考えてゆく。
やっぱり人なんだと。
でもそこにまた人をどこまで受け入れていくかの「汎用性」の問題があって。母には「あんたは切るのが遅い」「変な予兆や不穏さを最初に感じた時にもう切らないと手遅れになるよ」「会計に文句つけたりとかする奴はその時点で変な奴なんやから」と言われてその通りだなと思ってはいるのだが。
リスクヘッジを強化すると、森は少しつまらなくなるし、一部が壊死するかもしれない。でも、森であることにあまりこだわりすぎると、
今年はもっと酒場が荒んで行きそうだから、果たして常連さんや、スタッフや、店そのものを守れるのかって問題にもなるし。
いま、森の管理の仕方がとても難しい。
森の管理人、モカコ。
人を切ることが何よりも苦手で、使ってないLineのグループとか、もう何年あってない人の連絡先を消したりすることもできないわたしが、
2020年と2021年で2人も出禁にした。
そういう鉄槌を降ろすような人間になったことにも驚いている。
自分だけならよかった。でも、今、わたしの森には、護らなくてはいけない人たちがたくさんいる。多様性と汎用性を大切にしながらも、わたしの大切な誰かを蝕もうとするものは、ムカデであれ、たとえ甘い匂いの美しい花であれ、そしてそれがわたし個人にとっては害がなく、個人的には好きなものであっても、伐採し、殺す。
それがきっと2021年に森の管理人であるということなのだろう。
同時に自分が気がつかないところで配慮にかけ、大切な人を傷つけ裏切り、愛想をつかされたりしてることもある。大変不甲斐ない。
だからこそ手を広げすぎずに、本当に大切な人たちだけを、本当に大切にできる、わたしにならねばならないんだな。
長くなりました、お付き合いくださった方、ありがとう。
長く絶版になっていたわたしのデビュー作「蝶番」と2012年の渾身作「誰かJuneを知らないか」がこの度、幻冬舎から電子出版されました!わたしの文章面白いなと思ってくれた方はぜひそちらを読んでいただけたら嬉しいの極みでございます!