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月曜モカ子の私的モチーフvol.230「人生の機微とインストゥルメンタル」

本エッセイは夏に丸ごとボツになった原稿「トーキョーオアシス / わたしと音楽、恋と世界」より、とある短編エッセイ『人生の機微とインストゥルメンタル』抜粋しています。
本日の月モカ、年仕舞い&ボツ原稿からの抜粋で長くなりましたので、
正月のおせちのように小分けにしてお手隙にお召し上がりください。

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2021年7月現在、明日がどうなるか読めない日々が続き、人生がある意味「急流すべり」のように劇的でドラマティックです。筋金入りというか墨入りのファンであり、我が店の珈琲部門担当でもある栞が昨夜わたしに向かってこう言いました。

「最近全然、本が読めないんです。あんなに好きだったのに読みたいと思える本もなくて、適当に見繕って読んでみた本でも何も感じない」

わたしは店から持ち帰った赤星を飲みながらこう答えました。  

「きっと、自分の人生の機微がキビキビしすぎて、人生のドラマが一分一秒に紆余曲折ありすぎて、誰かのドラマに没入できる時間が、ないんだよ」

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「わたしと音楽、恋と世界」の草稿を書き上げた一年前、
おそらく戦後初の「緊急事態宣言下」ではわたしも長編を書き抜く体力があり、長編を読み抜くテンションもありました。でも今は、自分の書いたものでも、読むのがしんどい。なぜ?自分の人生の機微がキビキビしすぎて、誰かのドラマに没入できる時間が、ないから。
毎日が予想外の翌日で、仕入れた食材をなんとかさばいたり、営業時間の変更をいろんな人にLineしたり、貼り紙を書き換えたり、飛行機や決まっていた宿泊をキャンセルしたり。同じ協力金の申請にも今回はこんな添付書類がいるだとか、コロナリーダー受講せよとか、常に仕様も変化するので毎回(ちゃんと通るかな?)とか気が気じゃないし、
同じルーティーンで日々が過ごせない。
協力金バブルとかって飲食店にまつわる嫌味な報道が繰り返された2月、わたしたちはまだ11月の協力金も貰ってなかったのです。(「ぶっちゃけバブルです」とかってインタビューに答えてる人は、絶対やらせかお金貰ってそう言ってると思ったよねあの頃)

ようやく営業が出来たと思ったら常連さんの勤める会社でコロナが出たりして、途端にその日は検査キット買いに薬局に走ったり。自分の人生にあまりに起伏がありすぎて、外に物語を求める余力がないのです。それをはっきり感じたのは、敬愛する志磨さんが最近リリースされた「バイエル」でした。

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毛皮のマリーズというバンドのヴォーカルとして2010年にデビューされた志磨さん、その美しい閃光の余韻だけを残し毛皮のマリーズは翌年解散しました。わたしはその最後の武道館にも行きました。
マリーズのことは同じく2011年に文芸誌に発表した短編「“今”と“かつて”に贈る恋文」の中で書きました。2019年にその自身の短篇を読み返した際
「いつかとことんマリーズのことを書いてやる」という一文を見つけ、そうか、2011年のわたしはこんなことを想ってたんだ、ならばその気持ちを成仏させてやろう、そう思って極めてロックに書き上げたのが「わたしと音楽、恋と世界」この作中本篇そのものです。
 
本編にも出てくる匂坂(さきさか)くんについて書かれた2011年の短篇、通称「今かつて恋文」は、なんの因果か、毛皮のマリーズの解散後すぐに結成された新しいバンドのアルバムリリースに関するインタビューをあろうことか我が妹ミイ子が担当するという巡り合わせにより志磨さんの手に渡ることとなりました。その日わたしの手元には「いつか会いましょう」とサインされた発売前のドレスコーズのCDが届けられるという「生きててよかった!」出来事があったのです。

妹ミイ子の仕事、つまりインタビューする側というのは大変繊細な仕事で、いつでも取材させて頂く取材対象に神経と配慮がなされます。
というかそうしないと当然いい記事はできないわけなので、インタビューする側の私情とか雑談というのは、記事やインタビューにとって有益だと思われる時以外は発動されないのが基本です。そんな中でこのような幸運が訪れたのは、これまでの人生を神様がまるで労ってくれたような贈り物だと、その時わたしは思いました。

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その後、奇蹟は続き、わたしは志磨さんに直接対面する機会を得ました。
約10秒ほどの対面でしたけど、志磨さんはわたしに「僕ね、読ませて頂いたんです、あれ」と言ってくれたのです。すごい!インタビューで渡された文芸誌と、それを書いた人間が志磨さんの中で一致している!
 今このお方はあの小説を書いた人間として、わたしに話しかけてくれている!縁はあれよあれよという間に繋がり、なんとわたしは人生初の単行本文庫化の機会に恵まれ、その解説を志磨さんに書いて頂けることになったのです。これはひとえに盟友編集者マドカ嬢の尽力ゆえでありましたが、
結果的にこの出来事がきっかけでわたしはそこから数年、志磨さんの音楽が聴けなくなってしまいました。

あれから7年経って、現在のわたしが思うに、あの頃のわたしってひとつの「燃え尽き症候群」みたいな状態にあったように思うのです。
デビューしてからありがたく連載をたくさん頂き、書きに書きに書いて、毎年1冊、多い時には文庫合わせて3冊とか本を出していて、でもいよいよここだ!と全力で放った新作がいまいち売れなくて、ちょっと自嘲的。
なんだよ!と怒るよりは「もういい↘」みたいな感じにあったというか。
つまり自分が自分をナナメに見ているから他人の言葉もナナメに入ってくるのです。あろうことかわたしは志磨さんが書いてくれた解説文を読んで、
勝手に落ち込んでしまいました。
(面白くなかったんだ……)と思ってしまったのです。
魔女と金魚は女の子向けでPOPs色が強いから志磨さんのようなアーティストの方は「誰June」とか「蝶番」の方が良いのではないか、という思い込みがそうさせたのだろうなぁ。無意味で勝手な思い込み。
編集者を通して「今回志磨さん大変苦労されて、悩まれてお書きに……」と志磨さんをまつわる状況も届いてきていました、でもわたしは(そんなにもどう書いたらいいのか悩むほどにつまらなかったんだ……)と思ってしまったのです。

思えばこの時、志磨さんは新しいバンド「ドレスコーズ」のツアーを終えた直後、バンドは再び解散、志磨さんはひとりきりになられたというニュースが飛び込んできていました。
その時の志磨さんの孤独や想いは「1」というアルバムに籠められています。バンドが解散してひとりになるってそれもうバンドじゃないやん。
かの「自由劇場」も最初、みんなが離れて新しい劇団を立ち上げたりして「自由劇場」は串田和美さんひとりぼっちになりました。
それでも六本木の地下の稽古場でひとり、大道具を修繕したりしている串田さんを見て、最初に戻ってきたのがデコさんこと吉田日出子さんでした。
日本中を席巻した「上海バンスキング」がまだこの世に生まれる前の、出来事です。

——ハローアローン、おろかな僕に 風が吹いたパレードの日 きみの言うことでわからないことは なにひとつ なかったよ——

今思えば、このように“スーパー、スーパーサッド”(←曲名ね)な状況で、よくわたしの文庫の解説を引き受けてくださり、しかも書き上げてくださったものです。

自身の人生の機微がキビキビしている時。それは誰かの物語に寄り添うのが大変困難な時。そんな時に志磨さんはわたしの物語に寄り添い、解説を書いてくださったのでした。

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最近わたしはよく「自分の課題」「他人の課題」について考えています。
つまりこのときわたしは、わたしが自分のことをいまいち肯定出来ていないという自分の課題を、勝手に志磨さんの文章に投影して落ち込んだだけのことなのです。

じゃあ一体、どんな言葉が並んでいたらわたしは満足し、狂喜乱舞したのだろうか。自分に掛けられる相手の言葉を「こうあってほしい」と望むこと、それは100歩譲ってよいとして、望んだ言葉が貰えなかったことで落ち込むとかってもう、その行為が傲慢そのものだと今のわたしは思っています、
かつての自分が恐ろしい!   

昨年読み返したその解説で志磨さんはわたしのことを「小説とはうそのことである」ということから「中島はうそのうまい人である」と書いてくれていました。うそとは魔法のことで、それを鮮やかに観客にかけ、ここではないどこかへ連れてゆく仕事を志磨さんは「ペテン」と呼んでいます。
「ペテン師」という言葉は志磨さんがライヴで最後に自身を形容する時に使う言葉であり、その自分に宛てる言葉を「うそのうまい人」という表現でわたしに宛ててくださったということ、これは志磨さんからわたしへの讃歌に他ならないのに、2014年のわたしの病んだ心にそれは届かず、わたしは勝手に塞ぎ込んでしまったのでした。失礼な女。
関わるのが怖くなるメンヘラ女。

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2021年3月、突然目の前に現れた20歳のファンの女の子がいて、彼女のこれまでの中島桃果子作品への思いの丈などを全身で受け止めたわたしは彼女を最後の弟子にすることにして、彼女に会いに北海道まで行きました。端的に「弟子」とまとめましたがそれは「遠路はるばる会いに来てくれたから」と抱きあい、サインして終わりではなく、連絡先を教えたり、沈思黙考の結果、中島桃果子のオフィシャルファンnote記事をお任せすることにした、ということなのです。


すでに知人を除くファン1号の栞は去年の夏から神楽坂の“アトリエ孤高の塔”に居候をしており「内弟子」状態だったので、実質的にただのファンではない存在という意味において弟子2番目、同時に今後は「売れてゆく所存」のわたしにとって、これが最後の弟子ということになったのでありました。たくさんの友人が「わざわざファンに会いに北海道まで!」変な期待をさせてこじれたりしない? と心配をしてくれましたが、同時に多くの友人が「そこでそうする? ってことをするのがモカコ式だもんね」とわたしの意向を認めてくれたことや、常連で落語と講談にはまっている同世代若手社長O神氏に「弟子とる気概なんだったらリモートなんか絶対ダメ!ちゃんと会って話すべきだよ」との激励を受け、わたしは緊急と緊急の狭間を縫って、札幌に降り立ったわけなのであります。

同時に弟子なのだからということで、大切なことは包み隠さず伝えることにしました。わたしはとある出来事を踏まえて彼女に、

「自分の欲しい言葉を相手に、しかも自分が敬愛し慕っている相手に要求するのはとても傲慢だ」

「わたしはあなたの恋人ではないんだし、たとえ恋人であっても自分の望む振る舞いじゃなかったからと言ってそれをあなたが正すなどというのは傲慢なんだよ」

といったような内容のことを伝えたのですが、
正味わたしにもそういう傲慢な時代があったということなのです。
そしてそれらの行動は傲慢ではあるのだけれど、自分が自身を肯定できないという傲慢とは対極の自己否定の世界線から生まれてくる。
それでもそれはやっぱり相手には無関係であり、
投影してはいけない、自分の課題。

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ともあれ志磨さんはその後、MAP系バンドとして活動を継続————演劇界で第一線に君臨する演出家たちが自身の劇団の解散後、または劇団とは別に行うプロデュース公演を野田MAP、KERAMAPと銘打っているのにちなんで、わたしは勝手に志磨さんをMAP系バンドと呼んでいます————毎度違ったミュージシャンたちとアルバムを発表してこられましたがわたしは当然1枚たりとも聴くことができず、一気に全部を聴き始めたのは2019年の2月のことでした。

きっかけは三文オペラです。
芝居をこよなく愛するわたしとしては、志磨さんが「三文オペラ」の劇伴を手がけられたということを知り、聴かないではいられなかったのです。
数年間断然されていた時が繋がり、わたしの細胞には一気に志磨遼平の数年の音楽が流れ込んできました。
そしてそれは、わたしにとって豊潤なひとときでした。彼の音楽を聴いたけど、もう痛くない。乗り越えられたと思いました、いつかのCharaのように。それからわたしは2019年6月に行われる東京キネマ倶楽部のチケットを思い切ってとってみたのです。「ほんとうに購入しますか」といったような最終確認のボタンを押した時の指の感覚を今でも覚えています。
そう、わたしって天才作家だし、自身のお店では女王のようにスタア然として振舞っているけども実は「誰かのファン」であるという弱くて苦しくて、切ない気持ちを、誰よりも知っている。だからつい、自身のファンにも踏み込んだ対応をしがち。

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クリムトの「接吻」を眺めながらチケットを取ったまだ寒い2月の夜、ライヴが行われるその時、キネマ倶楽部から歩いて戻れる根津の路地で、自分が酒場の女主人になっているとは思いもしない半年前でした。
そのライヴは2015年5月に発表された「ジャズ」というアルバムにちなむもので、2019年の春に人生初の肺炎で入院し、遅ればせながら志磨さんの「オーディション」という2015年のアルバムを四六時中、飽きるほど聞いたわたしにとって5月の新作は嬉しいリリースでした。思えば「世界の終わり」をモチーフに作られたそのアルバムが出た5月、翌年世界を襲う疫病のことは誰もつゆ知らずでしたが、間もなくわたしを襲う愛した男からの置き去り、そのマイナーコードの前奏であり足音は耳をすませば聞こえてきたのかもしれません。

退院と同時に翌月わたしの「世界の終わり」が始まり、わたしは5年に及ぶ純愛を喪失、残ったのは赤い絶望にふちどられた決算書と、イーディの箱でした。わたしは恋愛を捨て芸術に乗船、イーディの日々が始まります。
自分でも信じられないことだけどお店はものの3ヶ月で月の売り上げを30万円以上も伸ばし、黒字に転じました。これは「箱」が仕向けた「箱」の采配だっただろうと、飲み屋の才にからきし自信のない自分は思っています。
箱の采配。
ヴィンセント(あの箱)は芸術の人の到来を長らく待っていたからね。

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(↑「夜のカフェテラス🌙」ミイ子がくれたクリスマスプレゼント2021)

けれど人生ってファニーウェイ。人生って皮肉(アイロニック)、アラニスモリセット。からきし自信のない自分のお店がなんだかみんなに支えてもらって繁盛したり、天才だと信じて疑わない自分の小説はずっと不良債権だったりね。天才よ、天才なのよ? でも売れないんだ、これが。

ともあれイーディは軌道に乗って2020を迎えました。しかし世の中は武漢のコウモリ発全世界ゆきの疫病に蝕まれ、志磨さんのデビュー10周年ツアーも一年延期。ようやくライブが行われた2021年3月31日の中野サンプラザの後、4月の半ばに突如発表されたのが、この「バイエル」でした。
もちろんアルバムはCDで全部持っているけれどサブスクでも聴けるようにしているので新曲がリリースされた時、アップルミュージックでは勝手にそれが一番上にお知らせされます。

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(2019年最初の入院時、つかの間の外出にて洗濯をしに自宅へ帰る)


“人生の機微”に、話を戻しましょう。
Apple Musicの「ドレスコーズ」の一番上に見たこともないそのアルバムが表示された時、わたしは協力金申請用の、いわば宛先の曖昧な看板を、深夜に描いていて、この作業に辟易していました。
チェコのビールとか、飲んじゃうもんね。
「志磨さんが新しいアルバムをリリースした」というのはとても嬉しいニュースです。だけどこの返し縫いのような日々にわたしは疲れていて、わたしは返し縫いのような日々を送っているのに、敬愛するアーティストはどんどん作品を作ってリリースしている、という事実も、わりときついものでした。店は閉めてる日の方が多いから、店に行く日になんやかんやまとめてやることがあって、20じに閉めても本当にあっという間に深夜の2時とかになる。でもそうなると今度はタクシーが全然走っていない。

「タクシーを拾って家に帰る」という当たり前のことですらもままならない日々をもどかしく生きている中、どうだろう、その頃もう賞の結果が出ていた? 出ていない? すれすれの時期だったと思うのだけど、自分の中の「確信」と、いわゆる出版界の「現状」に何かしらの乖離みたいなものはどことなく感じていたりして。
なんかそういった中で、自分と同時期にデビュウした、敬愛する同世代のアーティストが精力的に作品を発表していく姿というのは、勇気であると同時に自分を打ちのめすこともできる。
同期とか同世代ってそういうの、なんかあるよね。
わたしの新作は傑作で、やってることは間違ってないはずなのに新潮社からも幻冬舎からも、今は出せない。だからシード権剥奪、賞に出すなどというまどろっこしい手順を踏んでいる。賞ならもう12年も前に獲ったのに。

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こんな感じの看板を毎回書きます。お客様に親切な用に書くと——例えばうちは月曜休みだから”来週火曜から”とか書くほうが親切なんだけど——そうすると申請が通らないのです。

(ああ志磨さん、年末にあんなに素晴らしいライヴしたのにもう新しいアルバム出してるわ。そんでその間にわたしは一冊の本も出せてないわ)

サブスクのお知らせを見たとき、わたしは正直そう思って、しんどかった。今から、東京都宛にわざわざ、看板描かなあかんし。
でも無音はさびしいし。
その時流れてきた新しいアルバムの音楽。
それはなんと、ピアノだけで演奏されたインストメンタルでした。

その時、わたしはどれだけ安堵したことだろう。

大好きな志磨さん、なんなら結婚したい志磨さん(笑)、
表現者として無条件にお慕いしている志磨さん、わたしが放ちたい“えたいのしれない感覚”それをいつも適切に言語化し放っている音楽家の志磨さん。

その人が放つ「新しい言葉」は、きっとわたしの魂と肉体を大きく揺さぶるに違いなくって、だからこそ心がついていかない。

わたしは、自分に強く影響を与える人の言葉を、今はまだ、聴きたくなかったのだとその時知りました。

「バイエル」はその後、歌詞がつきドラムやギターがつき、最後6月29日にはバンドでライヴが行われました。あちこちのプレスリリースで「成長するアルバム」と書かれていたけれど、わたしはまさにあの時「種」だけを受け取りたかったのです。水も温度も足りていなかったし、何より「育ちたい」という気分じゃなかった。すこし佇んでいたかった。

そんな夜に流れた志磨さんが弾く、けして卓越した技術ではないピアノだけの楽曲たち。それは小学校の時、晩秋の頃、知らずに外で遊び散らかした後に近所(古高)のゆうみちゃんのお母さんが「ほら」と言って渡してくれた、揚げたてのさつまいもの天ぷらにとても似ていました。
それを体内に取り入れて初めて自分が冷えていたことを知るのです。
そしてこの瞬間を自分はこの先一生忘れないと、食べながら知るのです。

こういうものが出会いの奇跡で、そこにサツマイモの天ぷらがあったことが全て。人生に刻まれる一瞬がプロによって綿密に紡がれた丁寧な仕事、ではない時もあって。そういうとき不思議とそれは少しくぐもった、体温を感じるものがいいのです。上手くなくて旨いものがいいのです。
ちょうどそう「自粛期間にピアノを始めたんです」という志磨さんの指先から放たれる、まだ多少“たどたどしい”と呼べる演奏のように。
旋律は旋律だけで言葉がないから、少し何かを、
もう少し明日の宿題に、持ち越せる。

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その時に思いました。小説は言葉の雪崩。今、みんながそれを受け止められる場所にいるだろうか。
つまり「誰かの言葉の渦にたゆたいたい」だなんて思うところにいるだろうか。わたしは「書きたかった」けど、今誰かこんな話を「読みたい」って本当に思えているのだろうか。
小説におけるインストメンタル。それって一体どういう形態なんだろう。
シンプルで素直なものがいいよね、まさしく「バイエル」のように。

志磨さんは「バイエル」のモチーフ(動機)に関して様々なインタビューで「新しい価値観にフィットする教科書のようなものを作ろうとした」と言っておられて、多分志磨さんがおっしゃる「新しい教科書」はわたしにとっては「新たな聖書(バイブル)」という世界線、それに関しては「惑星会議(仮)」という物語を2015年くらいから構想しているのだけど、本作に関しては聖書や教科書の提示とか全く思っていなくてあくまで「バイエル」は“種”としての表現の着想であり、わたしはただ足跡をなるべく正直に遺すということに腐心したいなあと思いました。

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そういう意味での小説における「バイエル」を考えた結果、この物語は、全体的には一つのお話だけど、なんとなーく短編が、ちょこまかあるような感じの「わんこそば」スタイルをとってみることにしました。
「手の内を明かす」ようなことも冒頭からじゃんじゃんやっていこうと思います。なぜなら、理由を追求したり探求したり、わずかな手がかりを手繰り寄せて物語の真髄に迫るみたいな読み方をするエネルギーが読者であるわたしに、今はないからです。酒場の女主人としてのわたしはそうなのです。
一概には言えないけれど、市井の渦の流れのきついところにいる人たちは日々に忙殺され振り回され、きっとそうじゃないかなあって思って、なのでわたしは生まれて初めて「わたしのわたしによるわたし文学の追求」をちょいと置いて置いて「読みやすさ」をいちばんに考えたいと思いました。
目次を作っていますので、なんとなく読みたいものから読んでいって、最後の方に「わたしと音楽、恋と世界」というかなり長いのが来ますけど、それすらも部分部分で読んでも暇つぶしになるような感じで考えています。

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✴【機微(きび)】とは……表面だけでは知る事ができない、微妙な趣や事情のこと    

      <「TOKYOASIS✴トーキョーオアシス(2021)」より抜粋>

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結果的にはこの壮大なワタクシ物語「トーキョーオアシス」は目下「蔵入り」となりました。けれど丁度、その志磨さんの「バイエル」がさらに成長した形でリリースされたところですので、丁度いいのかなって引っ張りだしてきたんです。そうそう、昨日のレディオは年内最後の放送でした。
この放送でも30:00以降に「海王星」の話、ラスト5分に「バイエル」の話をしています。

<モチーフvol.230「人生の機微とインストゥルメンタル」2021.12.27>

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それでは皆さま、よいお年を!
2022年もよろしくお願いいたします、愛をこめて💫




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