『Tokyo発シガ行き➡︎』 (2019年7月号アーカイヴ/第8号)「"事件"前編」※6月号はお休みしました※
(まずは出力してアナログにお楽しみになりたい方の為の原稿を)
この冊子はA4にプリントされたものをペキペキ折って一箇所に切り目を入れるだけで冊子になるスグレモノです。笑。しかし!2021年現在の組版に慣れている方、この頃”がんこエッセイ”は黎明期。冊子字の大きさ小さくて読みにくい上に、縦書きなのに右側綴じです、すみません💦
✴︎ ✴︎ 以下、アーカイヴ ✴︎ ✴︎
このエッセイを楽しみにしてくれている皆様、勝手に6月お休みしてしまい申し訳ありません。まずそれをお詫びいたします。そしてせっかくなので、わたしの身に何が起きていたのかを物語としてここに書かせてください。これまで生きてきた40年の人生で、こんなことが起こってしまうのだろうかというくらいに信じられないことに満ち満ちた5月でした。6月号は本来5月に準備するので、そんなわけで6月、エッセイを準備することができなかったのです。そしてわたしはわたしのために、この回を「エッセイ」ではなく「物語」であると定めます。そうこれはまるで事実のような、わたしのわたしによるわたしのための執筆メモ。
肺炎は「ああなるほどこれで人が死ぬのがよくわかる」というほどに大変な病だった。特に完全看護の入院中より退院後の方が「療養」ができないため具合が悪く、東京は空気も悪いので、ずっと重度の喘息患者のように気管がただれて狭くなっており、思うように息ができない、そんな日々。「息ができない、胸が苦しいよ」って、こう心の状態として表現することが普通は多いと思うのだけど、事実として息がしにくく、胸が苦しかった。
そんな状態でわたしは82歳の宝石商のマダムの元の秘書として日々オフィス兼自宅に通っていた。そのマダムのことは数年前から知っていてわたしは彼女が大好きだった。1月に6年間働いた銀座のお店を辞めたので、そこから縁あってマダムのところへ通うようになった。今から思えば辞めるべき理由があって辞めたお店から頂いたご縁に、繋がるべきではなかったのだのだと思う。けれどそれがわかるのはもっと後の話。
マダムはいわゆるジブリ映画に出てきそうな富豪の御婦人という感じで宝石商と言っても店をもたない。「伊勢湾台風がわたしの運命を、変えちゃったのね」彼女が時々目を細めてそう語るように、学生の時に被災した友達の旅館をお手伝いする中で伊勢の真珠を売る仕事をアルバイトで手伝い、そこからあれよあれよと言う間に真珠売りに。そして28歳の時、単身でパリに渡りオフィスを構える。以降パリと日本を行ったり来たりしながら、パリでは日本の真珠を売って、日本ではパリから持ち込んだ珍しい宝石を売って、そんな風にして商いをした。皆が知るオペラ歌手、映画監督、大企業の社長ご夫人、そのような方々が顧客であった。わたしは彼女が歌う、ピアフの晩年の名曲「わたしは何も後悔しない」が大好きだった。82歳のおばあさまが完璧なフランスの発音で歌い上げるピアフのシャンソン。そこに彼女が歩いてきた日々を感じていた。
マダムのところは3月からお世話になることになり、このご時世に時給1500円という、とてつもない好条件で、しかも3月はほとんどやることがなかった。たまにアスクルやアマゾンでマダムが必要としているものを発注するとか、一緒に長い昼食をとりながら、これまでのマダムの人生について伺うとか。お洒落な人でいつも昼にはシードルを飲んだ。もちろんわたしも一緒に。3・11の日は一緒に黙祷をした。「怖かった、でしょうね。あんなに大きな津波が、押し寄せてくるなんて」広島で原爆にあった彼女の言葉は、3・11に対しても他人事という感じがなくずしりと重かった。こういった彼女との日々を「マダムキッキと猫の手」というエッセイにして「大家さんと僕」のように綴っていこう、そう思っていた、その時は。
守山の方々はご存知3・31に「Gifted@新生守山図書館」がありまして、わたしはその一週間ほど前から守山に帰っていた。そして東京に戻ってきてすぐの4月13日に肺炎で入院した。退院が4月26日だったので、簡単に言うと4月はほぼ、マダムのところへ通えなかった。マダムは退院したその日に、わたしの退院パーティをサプライズでしてくれて、わたしは3月の最終週の出勤後、4月29日にようやく再び出勤したのである。3月分の給料をまだ頂いてはいなかったが、まるひと月こちらの事情でお休み頂いて、出勤したその日に給料のことを口にするのも野暮だと思ったので、数日働いてから訊ねようと思っていた。えっと結論から言うと、わたしは給料が貰えなかったのである。3月分、4月分はおろか、5月分も。
補足するとそれは5月末の時点での結論であり、正確には6月13日、給料が支払われた。しかしそれはわたしが何度も提示した「真っ当な形での振込」ではなかったのである。15万ほどの現金が、6月13日どのように支払われたかというと、あろうことか宅配便でピンポンと、送られてきたのであった。しかもこの給料未払い事件は、それでは終わらなかった。それで終わっている程度のことであればわたしも「がんこエッセイ」をひと月ぶん落とすようなことはしなかった。何とマダムは、わたしの給料を払えないどころか、罪の意識なく、顧客の積立を根こそぎ使い尽くしていたのである!
わたしはたちまち「詐欺の片棒を担いではいまいか」つまり法律に抵触してはいまいかという不安に駆られた。逮捕とかされたらどうしよう。もりやま卑弥呼になりたいとか言ってる場合じゃない。故郷に貢献どころか迷惑をかけてしまう。作家としてのわたしの人生もぐちゃぐちゃになってしまうかも。
5月13日に完全なる未払いが発覚。
その日の朝に顧客の積立金の前月分が入金されるのだったので、朝入金があったにも関わらず、わたしに十数万ほどの給料も払えないということは、すべての積立金を使い尽くしてるのだろうと確信する。その次の日がたった1日だけオフィスに一人で入れる日だったので、まず自分がきちんと労働した証を、彼女が燃やしたりとかしてしまわないように、書類やタイムカードをコピー、日報ノートもコピーした。彼女は名古屋に出張だったが怖いので妹についてきてもらった。その日報ノートは、わたしが「健忘がひどい」彼女のために心を込めて、その日食べたものまで記したノートだった。彼女がそのノートをひらけば、何度忘れてもまた思い出せるように。そのノートが今わたしの労働を証明するエビデンスとなっている皮肉な悲しみ。
本当に偶然、親しい弁護士さんとその数日後に食事をする約束になっていたので、一連の流れをお話し、わたしは当然「加害者」であるはずもなく「紛れもない被害者」であることがわかった。マダムのしたことは正確には詐欺ではなく横領にあたることもその時わかった。わかった。わかったのだけど。これらすべてに、本人の悪気が一つもなく、健忘が進むアルツハイマー型、高齢者の過失経営が要因だとしたら、誰を悪者にすれば良いのだろう。生んだ息子は「はいプレゼント♪ って親に渡したの」彼女はそう言っていた。自分を祖父母にプレゼントしてパリに行ってしまった母。その母が高齢者健忘に陥った場合、息子は手を差し伸べるか。その頃テレビではあちこちで高齢者の過失運転致死の事故のニュースが流れていた。わたしが直面している問題もまさにこれじゃない。わたしは彼女の家族ではないけれど。そう、全てを忘れる彼女は何も”後悔しない”彼女が口ずさむピアフのように。そう、“Non ! Je ne regrette rien [わたしはこれっぽちも後悔していない]”
そしてわたしをさらに心痛させた問題というのは、この事件に別な角度から絡み合う、辞めたはずの銀座のお店のママとの出来事だった。そう、マダムがあとかたもなく使い込んでしまったお金、その顧客リストにはわたしのよく知る名前が印字されていたのである。ママではないが、ママではない分ことをより「ややこしく」させるその名前。(続く)
✴︎ ✴︎ 以上、アーカイヴ ✴︎ ✴︎
結果から言うと、この次の号でこの事件の顛末には述べませんでした。
楽しいエッセイにならないからです。笑。そしてこの頃のわたしは、この案件についで、6月から店長を担当したお店の給料も大幅に遅延し、それがいつ入るのかを訪ねた際に「金カネ言いやがって💢」と罵られる未来が待っていると知りませんでした。その人のことを、わたしは5年間ずっと愛していたのですよ。だからその時、月15万の給料で火曜日から土曜日まで毎日朝まで働いて始発で帰っていたんだよ。その人は5年前、わたしに融資で手に入れた200万の札束を見せて「みてごらん、モカちゃん、たったこんな紙切れで死ぬ人間がいる、こんな悲しくて無意味なことはない」と言った。たったそんな紙切れの為に、5年後わたしは、たった15万の給料を払い渋るクソ経営者に、まるで銭ゲバのように罵られた。
まさに、♩たば〜このぉ、匂いが、あたしのかみにーすがる〜、
駅の、冷たいホォ〜〜ムさーーーぁ、って感じだったよね。
↓打ちひしがれすぎて歌うし。笑。
その後夢から目覚めたわたしは一念奮起し、その店を買い取って、正真正銘の女主人となる。そこでの日々を綴った手記がこのマガジン「ひとかどアーカイヴ」である。
がんこエッセイ、この時期はわたしの人生が大変だったので、
ちょっと重奏低音重めだよね。もし2021年の今読むのがしんどかったらパスしてってね。
〈 挿絵・杉田美粋(妹)〉
長く絶版になっていたわたしのデビュー作「蝶番」と2012年の渾身作「誰かJuneを知らないか」がこの度、幻冬舎から電子出版されました!わたしの文章面白いなと思ってくれた方はぜひそちらを読んでいただけたら嬉しいの極みでございます!