🍉すきとおる　VOL.1

　世界は多数決のぬり絵なのだ、と、ふと思ったのは、昨日、シャンソン会の準備をしているときだった。
あいにくのどしゃ降りで(いや、しかしシャンソンには雨が似合う、と実環子は考えているので、あいにく、というのは客人のための言葉としよう)雨がひっきりなしに降っていた。
実環子は窓を開け放ち、網戸の向こうから聞こえてくる、おいしそうな水の音を聴いていた。遠くの方で聞こえる、土にあたる雨足の音に比べて、手前で大きく聞こえる、堅樋たてどい｜の中をじゃぶじゃぶと流れる水の音は、おいしそう、というのが一番適切な形容なのであった。しばらくの間、その音を最大音量に―とはいってもそれは物理的に無理なので、比較の問題として、家の中を無音に保ち―黙々と準備をした。
冷しゃぶなんかいいなあ、胡麻だれをつけて、野菜を巻いて、と思ったのだけれど、的確なレシピがわからないので本をひっぱりだしてきた。

【材料】
豚肉(薄切り)…３００～４００ｇ
グリーンアスパラ...４本
サニーレタス...１/２株
キュウリ...１本
プチトマト...８個
[薬味]
ミョウガ…１．５個
大葉...５~６枚
[白ゴマダレ]
練り白ゴマ...大さじ２
作り置き甘酢...大さじ２
白ネギ(みじん切り)...１/４本分
しょうゆ...大さじ１
ポン酢しょうゆ(市販)...適量

  どのタイミングで肉に火が通ったかを視覚的に認識できない竜之介も、あらかじめ茹でる冷しゃぶなら、気兼ねせず食べれるだろうと思ったけれど、このレシピでは、おそらく竜之介にとっては味気ない茶色緑のお皿になってしまいそう、と考え、何か白い色を足すことにした。
冷蔵庫の中にある白いものは、梨、豆腐、玉ねぎ。赤い野菜は、パプリカ、大きいトマト。実環子はキュウリが嫌いなので、冷蔵庫の中にキュウリは入ってなかった。レシピは次のように変更になった。

【材料】
豚肉(薄切り)...適量
グリーンアスパラ...４本
普通のレタス...適量
赤いパプリカ...１個
トマト...３個
玉ねぎ(スライス)…１個
絹ごし豆腐…１丁
[薬味]
ミョウガ...１．５個
大葉...５~６枚
[白ゴマダレ]
ゴマだれ(市販)
ポン酢しょうゆ(市販)...適量
【その他】
白ワイン…白は詳しくないので安いシャブリ１本
梨…適量

　準備をしながら、水の音を聴いて、果たしてこの水の音を「おいしそう」と形容することに納得する人間はどれくらいの割合でいるのか考えた。その後、世界のあらゆるものを割合で計ってみた。

  世界に存在しているものの中で見えているものと見えていないものの割合、聞こえていることと聞こえていないことの割合、みんなが知っていることと知らないことの割合、男と女の割合、男でも女でもない人の割合。そこまで考えたとき、そもそも人間の種類を男と女のふたつに分けて定義したのは誰なんだろう？　という疑問に到達した。精神的に男と女が混在している人もいるし、肉体的に混在しているふたなりと呼ばれる人もいるし、指折り数えるといくつかの種類が存在するはずであるのに、「いや、性別は二種類だ」と大まかにふたつに分けたのは誰なんだろう？　
そのときにふと降ってきたのだ。今までのところ、世界は多数決の塗り絵なのだ、という言葉が。

  実環子はそれを口に出して言ってみた。するとそれは、ますます、そうだ、確かにそうだ、という実感をもつ響きとして、網戸をすりぬけ、堅樋の中へ水と一緒に流れていった。じゃぶじゃぶとおいしそうな音をたてながら。

　世界のカンバスに塗り絵は、油絵のように、繰り返し繰り返し、ある地点で全く違う色に重ね塗りされ、それまで違う色に塗られていたことなどなかったかのように、しらっとそこに新しい色が存在する部分や、また、圧倒的な多数決でもって、けして塗り重ねられない部分があったりもする。平たかった大地が、しばらく時間をかけて、平たかったことなどなかったように丸い球体となり、性の区別は頑なに二種類で分けられている。
　
   実環子はときどき考えている。もしこの世界と呼ばれる球体が、球体ではなくて、例えばサイコロ状であったら？　と。その可能性はないのかと。
　十二色のクレヨンしか使わせてもらえない幼稚園のころ、いつも太陽を黄色く描いては赤く描きなさいと怒られていた。けれども中学や高校になって絵の具を扱い、色を混ぜることができるようになってからは、昼間の太陽を描くのに、赤を使う人のほうが少なかった気がする。夕日でもない太陽を真っ赤に塗ったら、それは、逆に奇異なことであった。
　多数決によって世界が１８０度変わる。不確かから新しい不確かに。
　そんなことを考えているうちに、冷しゃぶができた。
味見した赤いパプリカは、ポリポリと新鮮な音を立てて実環子の胃に落ちていった。

口の中には、少しの苦味と、それを包む甘さが残った。
一休みして、爪を青く塗った。雨に合わせたけれど、果たして雨の色ってなんだろう？　実環子は考える。青のイメージだけれど、それはあくまでイメージであって、正確に雨色に塗るなら、透明のマニキュアでよかったはずだ。けれどもカンパスに、もしそんな色があるとして透明の絵の具でたくさん雨を降らせたら、きっと景色は逆に晴れてしまう。実環子はなんとなく、くくく、と笑った。
　美術教師的観点からいうと、もし、透明のマニキュアを塗った指を描くなら、使う色は、白と、桃色と、黄色と、それが混ざり合った肌色のグラデーションだ。透明のグラスを描くときは、ガラスの向こうの世界をどんどん描きこむことによって、透明が出現する。そう、透明の絵の具はないから、透明、という色もないのだ。

　描きこめば描きこむほどにカンバスはすきとおってゆく。
　つまり、色や、視覚も、もとを辿れば、光の手品。

  乾ききっていない爪に、注意を払いながらＣＤをかけた。
　ソフィー・ミルマンの“Ａｇｕａ　Ｄｅ　Ｂｅｂｅｒ／アガ・ジュ・ベ・ベ”邦題は“おいしい水”

　部屋に満ちる、ボサノヴァの甘ったるいリズムと、外から入り込む堅樋を流れる水の音を混ぜこぜに聴くうち、実環子はだんだん、ここが大きな水槽で、自分がその中の水になったような気分になってきた。水は甘く、硬くも柔らかで、粒でもあり、まとまりでもある。

　水と女は似ているな、分裂と融合をくりかえし、景色も音も映しこんで、透明な液体になりながら実環子は考えた。

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　---vol.2へ続く---

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この物語は春の短篇「ソメイヨシノ」の続きです。「ソメイヨシノ」はこちらから読めます。「すきとおる」以降はこちらnoteで無料配信いたします〜

ソメイヨシノ

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著者より）この連載は、栞珈琲（根津）×PASSAGE Bis!のNight Coffeeと連動して始まりました。ですので更新は”栞珈琲 at Bis!”の日に行われます！

なお「すきとおる」ですが14年の時を経て蔵出し連載されましたゆえ、ちょっと丁寧に確認しながらupしたいと考えています。なのでもしかしたら来週は更新されないかもしれません！（確認が早く終わったら更新する！）

とある日の雑談（栞＆ユイ氏）

月曜bis! #passage_bis は夜営業の日☕ 🍺 🍸 🍷

19-24時（L.O.23:30）で栞珈琲さん@shiorikohiによる自家焙煎珈琲☕ をお出してます！また、冷蔵庫によく冷えたビールもご用意して今夜もお待ちてます🍺 （j）#神保町 #夜カフェ pic.twitter.com/Xu3nsrBAIi

— 【現在棚主先着にて受付中】PASSAGE bis! （12-19時カフェ営業中） (@PASSAGE_bis) June 19, 2023

本日も19:00〜0:00まで栞珈琲at Bis!!です、お楽しみに！
プチコパンをぜひ食べてください！

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「すきとおる」by  中島桃果子🍑