第27話 ✴︎ 「右とか左とか正しいとか間違ってるじゃなくて”思いやり”の話だろ?」By"イーディ/InnocenceDefine”✴︎2024✴︎
このマガジンにて2024年をまとめる暇もなく2025年に突入した。
2025年における市井末端酒場経営の最大かつ最難の課題それは「分断との戦い」であると断言したい。そしてそれが「同時多発的に等しく丸”○”である世界線」を目指している我がイーディの経営方針にとって死ぬ気で戦いたい「黒船」でもある。
(同時多発的に丸、の意味はこちらのエッセイ一読ください↑)
簡単に説明すると、まずわたしは小説家であって筆を握るのが仕事であるので商いにはその職業柄我が店イーディを「政治や思想の話をしてはいけない店」にするのは大変難しいし、この乱世にその話を禁じるというもの時代錯誤な気がする。と同時に、わたしが推進しているのは「本当の多様性」であるので、世の中には政治に無関心な皇室マニアがいたり保守のLGBTQの人がいたりするように何十色も何百色の生き方や考えがそれぞれその唯一無二の人間の数だけあるのに、それらをざっくりと「左」とか「右」とか「レイシスト」とか「リベラル」とか「差別主義者」とか大きな主語でまとめてラベルを貼ってわたしの店イーディや、イーディの常連を形容して欲しくないと感じる(と同時にそういう括りで形容する人の形容の自由もわたしは尊重します)。
けれど2年ほど前からわたしの店は「左より」とか「右傾している」とか、右ないし左でのみ語られることが増えて、それがわたしは死にたいくらいに嫌だ。なぜならわたしが命をかけてやってきたことが何も意味してないと感じるから。
2年前かな?「通販生活」の誌面に登場する仕事を頂き、作家業が事実上休業と思われているわたしにとっては久しぶりのわかりやすいお仕事だったので身内は喜ぶし、かつその特集の中では誰よりも知名度もなかったので「通販」の雑誌に登場したからにはできる限りの「販促活動」をしたいと思ってカウンターに自身が登場した誌面を並べていた。
そのあたりから冗談で「左翼の店なの」と言われ始めた。これはわたしが超!仲良くしているゴリ保守の先生(パーキンソン病の研究が専門)が本当に冗談で言っていることで、
彼とわたしは同じくらい古神道に通じている&ワクチン反対ということで息が合っているしこの冗談は「モカコさんはなぜ神様を重んじているのに保守(天皇制を何より大事にしている)じゃないんだ!!」みたいな角度から始まったシュールなやり取りなんだけど、なんとなく妙に周りには真に受けられている。
わたしとしては持統天皇及びその以前に編纂された、正直古事記も日本書紀も恣意的な嘘が多いように感じる(滋賀が故郷なので肌感で)ことからホツマツタエ伝や竹内文書他様々な書物を偽物扱いとする説にも疑問があり、
そもそも様々角度から見てもその「血の継承」が正しく行われているかに疑問を持っているので、あまりその現在の天皇制におけるうんぬんに熱くなるテンションがない。同時に先日「全領域以上解決室」を一気見したわたしとしては(すみませんフジテレビのドラマなんですが神様のことを語るのに引用させてください)これは血というより霊力の問題か?ドラマ言語でいうところの神が「事戸を渡されたら」日本が終わるので、そのために保守の人たちは全力を尽くしているとも言えるのか?などとSF的に考える。
わたしとしては「通販生活」は思想というよりも生活がかかっている仕事だったというのと(何せその時期、店から給料を全くとっていなかったのでこの仕事の報酬は、数万でも店の存続にとって大きかった)あとその頃は「はだしのゲン」が広島の教科書から省かれたことなどに怒りを覚えていたので「はだしのゲン」が掲載されている「通販生活」我が登場号は、
戦争反対のわたしとしては大拍手、店に並べたかった、というのもある。
その後、去年あたりから「乱世」の兆しがあり、
わたしは一貫してグローバリズムに反対するナシュナリストであることだけは公言しているので(同時にグリーバリストの来店も歓迎しますし、これに関してはトランプが無事就任した本日、後ほど「月モカ」にも書きます。)
そしたらわたしのことを左だと思っていた右寄りの人たちがーー中にはゴリゴリの保守の人たちもーー「なんやモカコさん話わかるやん!」となり
(注:その人たちの角度から話がわかるの意味です)
店での政治の話がいろんな意味で膨らんでいった。
それでなんとなく店での政治の話が増え、わたしはますます戦争が近いなと思い(昭和初期の資料に「酒場で喧嘩と政治の話が増えると戦争が近い」という興味深いものがある)、都知事選や衆議院選やアメリカの大統領選や、
「ポリコレビジネスに汚染されたパリ五輪の開会式(わたしの見解です)」などかある度に、イーディのL字では摩擦と衝突が増え、とうとう先週の土曜日に、とても大切な友人に「この店は右に傾いてきて居心地が悪い」と言われてしまった。芸術家やクリエイターというのは左でなければいけないらしいのだが、わたしはその「ねばならん」がよくわからないしわたしは死ぬまで一貫して中庸を行く小説家でいたい。
(もはやリベラルという言葉すら信用してないので)
同時に母が教育者で演劇を志し状況し物書きをやっている自分の周りには「反体制」の考えの友人がもちろん多いしわたしだってコロナの間は「全体主義」に抗って「レジスタンス」という会合を店で開いていた。
こういうことが続いてようやく、演劇ライターであるわたしの妹が父親に唐組の話をした時に父が言った言葉の意味がわかった。
わたしと妹にとって演劇などにつゆほども興味のなさそうな経済専門の父が母とよく唐組や浅川マキのライヴに行っていたというのはその時初めて知ったのだけど(ヒッピー文化も影響しているのかも)その時に父が「だけど俺らは唐組行く時は二人して一張羅を着て行ったんや」と言うから「来ていく服なんかなんでもええやん、なんの自慢やねん」とわたしが笑った時に「アホか、唐組に一張羅着ていくのは俺らは”ノンポリ”なんですという意味やんけ」と言っていた。
当時これを不勉強なわたしは「ノンポリ? ノンポリやったら主張せんでいいんとちゃうの? あんまようわからん」と父親の衣装自慢のように思っていたが、今は非常に意味がわかる。
わたしの妹は演劇ライターであるが数年前に大手出版社を相手取ったとある裁判をしていて、通常そのような大きなものに向かって裁判をするなどという経験が一般的な人生にないことである副産物として、そのような人生を歩むことになった人間のある意味宿命のように彼女は「小さき声」を拾い上げ、世間にそれを問う人生を今は生きている。
そして当然のごとくわたしは常に妹の味方である。
そのことに思想は関係ない。
もしなんとかこれを皆が分類したがる思想のカテゴリであえて分類すれば究極のナシュナリストは究極の愛国主義者でありつまりは家族&血筋主義なんであるから「妹が戦うなら」全力でそれを援護射撃をするんである。
フェミニストではなく身内ニストなんである。
それは「リトルダンサー」という映画にあったように労働者のストライキを束ねる立場であったリーダー的な父親が息子にバレエを習わせるためにストライキを抜け働き出した構図に似ている。
結局思うんだけど「なんのために右なのか」「なんのために左なのか」
の究極を掘り下げていけば、それは自分の人生にとって大切なパートナーや家族や、子供たちの未来、行きつけの店や、コミュニティのためであるはずなのに、2025年現在の日本ではそれが本末転倒になっている。
このコラージュも最初はなんか逆に「多様性を尊重していることの押し出し」のように思ったので結局記事ごとを下書きに戻したんだけど、つまりはこれらはわたしの「身内」であり身内だから大事にしてるんであって、
つまりそれだけなんであるけど、身内といえどここに写っている人は皆他人であるわけだから、わたしがトランプを推しているというだけの理由でわたしをレイシストだとか差別主義者だとか言う人は、じゃあわたしがこれだけ暮らしの中で行動で示してきたことを、どう考えるのかな、逆にマイノリティの人権を大切にしているような感じで自身の生き様のスタンスだけをSNSで吠えてたりデジタル署名なんかをやってアクティヴな誰かに実際に隣人を一人でも助けたことがあるのかと、自分が人権を軽く見ているように思われた時には言いたくなってくる。だって言うのとやるのは全然違って、アナログで「汝の隣人を助ける」ってすっごく大変なんだから。
スペイン人のミリオの誕生祝いをした時は、彼が優秀なAI博士で高額の税金を日本に納めているにもかかわらずクレジットカードは持てないような現状のシステムを把握しない(本物の)”レイシスト”に、ミリオがケーキの火を消す際「君のような移民がモカコさんに祝ってもらえるなんて感謝すべきだ」という祝辞を述べた人がいて台無しになったり、モスリムのタフラがカウンターにいる際に来たアメリカ人が、タフラが英語を話せることを知ってか知らずか「(豚を食べないなんて)クソ意味不明だ」と英語で呟いたりしたこともあった。
多様性を守り、人が傷つかない場所を構築するというのは本当にエネルギーと愛がいることであって、つまりはそういう多様性や差別をなくすって「思いやり発」の考えのはずなのに今では「そうではない戦犯」を探して駆逐することが目的になってきている気がする。
これがなぜ市井というシャンパンタワーの裾野で起きてしまっているのか、考え続けてきたのですが、いわゆる生活単位で声を上げているアクティビスト(例えば演劇界やライター業界の腐敗に特化したり子育てするママとしてなどに特化して生活に根付いたところで声を上げている自分の妹など)と違って「フェミニズム界隈」や「活動家界隈」において自称リベラルみたいな人たちが何でもかんでも逆側の思想に噛みついて「極左が」とか「右翼が」とかって大きな主語で主張や攻撃を投稿し続けている人たちの大半はビジネスというか思想及び人権利権なんではないかなというところに、今回のフジテレビの性上納の件に関しても、普段なら「フェミ」を推している女性政治家などが全然SNSなどで声を上げていない不思議などを鑑みて行き着いた。
(わたしが見落としているだけかな?もう少しこの点を掘り下げたいですが、ビジネスフェミニストの忖度と利権はテレビ局のそれと被っているんじゃないかなと、政治家の子息が大量にテレビ局にいるという状況なども合わせて考えています。「トランプの英語は稚拙、トランプはディープステートなどという闇の政府が存在すると言っています」とかをトランプの圧倒的勝利の後に地上波で言ってしまう池上彰も完全におかしい。
忖度と癒着と利権にまみれて嘘つくのが仕事みたいになってしまったアメリカ版の池上彰のような既得権益層のことをDSと呼ぶのであなたがそこに存在しているようにDSは存在している。DSは闇の組織じゃなくて世界規模のフジテレビ、世界規模のジャニーズみたいなグローバル悪徳腐敗エリートたちを指す言語だから)
かつてイーディにおいてたった十席ほどしかないL字で日々顔を合わせ語らいあう互いは仲間であり家族であった。霊能者と陰謀論者と相場師と反ワクと3ワクとスペイン人やグローバルビジネスマンとホステス姐さんなどがつまみを持ち寄り仲良く飲んでいた。
なのに今「あの人が右だと知った今、話しにくい」という感じになっている。逆に保守が強い人は今の日本人が「どれだけ左翼のポリコレプロパガンダによって毒されているか」を隣の席に座った人に理解させようとして、
逆の思想の人たちが1番嫌うような語弊のある言葉——たとえば同性愛者には生産性がない、というような / ※これは喩えです、実際パリ五輪の時は「反差別主義」によって赤に傾く世界に憤死しそうな保守の人たちが「差別する権利もある!」みたいな言い方をしてしまい揉めに揉めた——を使ってしまい、また逆側もしかりで天皇制を大切にしている人たちの前で皇室の方の名前を呼び捨てにしたりして、ますます互いが互いを認め合えなくなり承服できかねる感じになってゆく。でもそれって、
右とか左とか正しいとか間違ってるじゃなくて”思いやり”の話だろ。
出張帰りやハードワークの後に「モカコさんの店でくだらない話でもして盛り上がりたい」って下ネタ話したり美味しい食べ物屋とか女の人のおっぱいの話で盛り上がっている人たち——しかも別に誰かをその場で傷つけてはいない——に向かって仮に過剰に「それはハラスメントです」と突然言い出すとか、日中ハーフの学生でイーディの歌姫Chunちゃんが端っこでギター弾いている時に「これ以上中国に勝手はさせない」みたいな話をするとかはね、ただただ思いやりにかけるだけとちゃう?
彼女はただただ母国ではない国で暮らす留学生なのに。
田舎から東京にやってきた時にどれだけ心細かったか、地方出身者なら問われたらすぐ思い出せるやろ。その時に東京の人が自分の出身県のことディスってたら理由もわからず悲しくなったり、したやろ。
とにかく最初に貼ったYouTubeでも話したんだけど、
見えない仮想敵(スイミーの集合体の怪物のようなもの)にとりまかれて、ずっと同じ小川で仲良くしてた隣のメダカ同士が斬りつけ合うなんて本末転倒だと思いませんかぁ〜ウフッフーと、
井上陽水みたいな語尾になってしまいます。
わたしは今年のテーマを「この乱世に”くつろぎ”と”たおやかさ”を提供すること」を掲げててあちこちのSNSでもそれを言っているのですが、
それを実現するのにとても重要なことは乱世の時こそ台風の目のような「ノンポリの時間」が大事なのだという答えに行き着いた。
わたしはこの6年ずっとイーディでは職業や、稼いでるお金や店で使ったお金、ステイタスや肩書きでマウントを取らない「人々みなフラット制」と「価値観の押し付けと相手を納得させたり染めようとしないこと」を理念とし大切にしてきた。同時にそれは忖度がなく自由なんだけど同時に線引きが「思いやり」や「道徳」になってしまうから難しい部分はあった。
お金をたくさん使うから偉いわけじゃないけど誰かのためにお金を使わないでどちらかというと他人にぶら下がっている人がりさことかに対して「ああいう稼いでいる人が使って経済回さないとね」などと平気で言うのはやっぱり違うと思ったし、年功序列ではないけど自分より長く生きている人には敬意を払って欲しい気持ちもあるから、わたしと同い年くらいの男性を平気で「おじさん」とは呼んで欲しくない笑。
そうなってくると線引きがけっこう「魂年齢」になってくるというか、
ブラッシュアップライフ的にいうと「人生数回目」くらいの人じゃないとうちのL字ではなかなか難しいなと思ったりしてしまうが「人生何回目」かは正直勝手なこちら判断であるので、実際はその調和を、何を持って線引きすれば調えられるのかはわからない。
つまりこう「人生1回目」というステージがもし存在するとするなら、
人生1回目のステージの人の主義主張は「よきことを相手に教えてあげたい」というよりも、「間違った思想、相反する思想のやつを論破して鼻を折りたい」というような攻撃的なスタンスが前に出る部分がある気がするし、
なぜそうなるのだろう、と考えても分からず栞に訊くと「相手を納得させ参りましたという感じにならないと自身が馬鹿にされたような気がするという奥底に自信のなさがあるのでしょうね。事柄についての議論でも自身そのものが否定されたような気がするんです、たぶん」と言っていて大変納得し、
そのような人にももっと優しくありたいとは思った。
ともあれ個人的内的な要因や、はたまた個人の暮らしの問題やこれまでの人生に起こった大事件や育ち、トラウマなどからできた各々の考えが「他を認め合えない」ことに行き着くことによる分断をなんとか理解に寄せて防げないかと考え、この数ヶ月は試行錯誤しながらこのようなYoutubeも配信してみたんだけど、結局両極に寄っている人は、相手の主張を「見るのも聞くのもイヤ」って感じで受け入れようとする基盤がないからきっとわたしのこの動画など見ないし、
逆に見てくれている人はうちのL字がどれだけカオスでも「それがイーディだね」って感じで受け止めたり、ちょっと違うなと思った時に相手や女主人のわたしを攻撃するのとは違うやり方で解決してくれる人たちだから、
正直世界のみんなというよりはわたしの大切な人たちがひょんなことからこれを見て「**さんがあの時ああ言ってたのはそう言う意味か」とか「そっか自分は**ちゃんの気持ちを理解しきれてなかったな」と思って次回は一歩づつ譲りあって欲しいとと思ってくれたらという儚い祈りは、おそらく玉砕しているのだろう。そしてそのように「認め合ってくれ」と願うわたしの願いすらも「認め合わない自由」への冒涜となるのかもしれない。
わたしは今回の大統領選、トランプが勝ってくれて本当に良かったと思っている。なぜならメキシコの壁界隈のドキュメンタリーなんかをみて、
命懸けて赤ん坊を抱いて不法にアメリカにやってくる人たちも見ていて辛くてたまらないし、いっそ「アメリカンドリームなどないから母国で何ができるか考えた方がいい」と感じたりしているから。
国境強化をマストだと考えるトランプを差別主義者と言ってる人はそのメキシコの境界から違法に入ってくる人たちがなぜ「違法でないと入れないのか」とか、わかりやすい例えで言うと満州からの引き上げぐらいの命懸けでやってきていることを知っているのかなと考えてしまうし、その境界線を仕切っているのがマフィアなので、そこ発の薬物汚染や、
人身売買についての負のループについてももっと考えた方がいいと思う。
みんな耳障りのいい言葉にさらっと取り巻かれているけど、
「不法移民反対」をレイシストだと呼ぶ人も、自身の家の周りに「不法で」モスクが10個できたりしたら抵抗あると思うし、フェミニストを謳って多様性を推している人でも自身が夫と暮らす家の周りに美しいウクライナの美女だらけの集落ができたら、自身の旦那が浮気しないか心配になったりして、次第にそのウクライナ人の素行などが気になり出したりすると思う。
人間て本来そういう自分本位な生き物だから、全てのことを解像度高く見つめないといけないかなと思う。
「酷い目に遭ってるんだ、重税反対!守ってくれ!」と言う人が一丸になって富裕層や高額納税者を攻撃してるけど、それらがひっくり返った時税金を払いたくないあなたたちはどうやって誰かを守るのかな。
イーディでもなんとか税金を払わないで済むようにしている自称弱者たちが(ごめんなさい介護職含む賃金が低すぎる過酷労働業種に関しての保護の話はまた別な時に)高額納税者のことを敵視し、世界を仕事で渡り歩いた後に疲れて一杯飲みにきているビジネスマンたちを攻撃するシーンを度々目にしてきた。
だからやっぱり「偏らない思いやり」の問題ではないか? と思う。
「相手の立場に立って」考えるのが思いやりの基本だけど、
相手の立場に立つことをするためには歪んだ眼鏡で世の中を見ていたら間違うし、つまりは相手の立場に立って考えること自体、なかなか難しいことである。
それでも今年わたしはこれを叫び続けたい。
右とか左とか正しいとか間違ってるじゃなくて”思いやり”の話だと思いませんかぁ〜と。
友人が死んで泣いている人に「その人ワクチン打ってた?」とか不躾に聞くな。敬虔なクリスチャンの人に「キリストは実は死んでなくて青森に来ましたよ」とか言うな。テイラースイフトの熱狂的なファンのまだ若い学生に「あれは民主党の操り人形だよ」とか言うな。東日本大震災の遺族の人に「あれは実は人工地震なんです」と言うな。何かを知らない人に「そんなことも知らないの」とか言うな。あなたが知らない「そんなこと」をたぶんその人は知っている。だから全ては思いやりの問題なんだって。
全ての大人は、大人がセックスをすることを知っているけど、
それを幼い子供には言わないし、言うタイミングをわきまえるだろう?
自分の正しさをかざす前に、自分がもしそういう立場で今突然こう言われたらどう思うかなって、考えながらみんなに話してほしいなって思う。
そうすると人は絶対に発言する前に一回飲み込むんだよ、
この作業って意気地がないんじゃなくて、思いやりなんだわ。
言論弾圧じゃない「時と場合」の問題であり「適切か適切ではないか」
の問題なんだわ。
一つの言葉に対しての解釈の角度が対角に鋭角になりすぎているこの時代に、この記事を書くのは非常に骨が折れた。何度も読み直して、語弊を生まないか、思いは伝わるか、考えては直し考えては直し、こちらも出す前に一旦飲み込もうかと下書きに戻してを繰り返しているともういっそ公開しないで消してしまおうかという気にもなる。
わたしはこの2週間ずっとエッセイをサボっているやつに見えているけど、
サボっていると思われてもこんなにしんどい記事を書くよりはいいのではないか。そもそもnoteは仕事じゃなくて自主的なエッセイなんだし。
そうは思うがアーカイヴ。サイは投げられた。
昨夜トランプが就任。時代的ポールシフトの始まりである。
今ここは根津のはじ。
遠きアメリカで始まったポールシフトが何か影響あるっていうの?
わたしたちの暮らしに?
たしかに裾野まで変わるにはそこそこの時間がかかるだろう。
だとしたらそのタイムラグがどれくらいかを知るためにも、
やっぱりここに記し刻んでおかないと。
ともあれイーディアーカイヴの視点からいくと1月というのは、
そう思うと元気にお店に立っているだけで100点ですな!笑
わたしは2月に新作を書きますが合間に書けたら2024年のアーカイヴも記してゆきたいと思っていますのでまた次回の更新をお楽しみに!