第11話 ✴︎ 「事件」By"イーディ/InnocenceDefine”✴︎
これは作品や極短編やエッセイでもないので淡々と綴ります。
昨日、お店に出勤して銀行にお金を入れようと通帳を持ってお店を出たら、横断歩道の向こうに都を見つけた。
(「みやこじゃん!!!」「何、どっかいくの今から?」)
いつものように反射的に思わず声をかけかけて、やめて、わたしから彼女が見えていないように振る舞った。彼女からはもう1週間、連絡がないし、3日前に送ったLineも長らく未読のままにされている。つまり彼女は今わたしと関わりを持ちたくないはずで、街で見かけて声をかけられるなんていうことはとてもゾッとするだろう。わたしはただ信号が変わるのを待って、マスクをした都はそのまま千代田線の階段を降りていった。
神様って時々こういう残酷なことをするよね。
街でばったり会ったことなどなかったのに、毎日会っていた人間からまる1週間も音信が途絶えた時にこういうことをしたりする。
こうやって今から何年も、街で都を見つけるたびにこうやって見なかったふりをしてすれ違っていくのだろうか、家族のように毎日一緒に過ごした都と。
そんなの嫌。絶対に、嫌。
イーディに関わってくださる、少なくともこの文章を読もうと思うほどにイーディを大切にしてくださっているみなさま。
去年の9月からの常連でありうちのお抱えデザイナー、そして昨年末からはカウンターの中でもわたしを支えてくれた、みんなのおなじみ、ワタセミ都を、
この度カウンターの中から客席に戻す決断をいたしました。
きっかけに大きな事件が(わたし的には)2つあって、1つ目はそのことを相談された才女もいたり、2つめの時は、凄まじい空気になってしまったとある日曜日にお店に来てくれた人たちが(イーディの常連陣はとても感性が豊かなので)「なんかあった!?」と感じたり、あとは最近とても崩落しすぎている、けれど勘だけは鋭いヤマネコが先々週たまたまわたしが都と言い合いをしている時に店の前を通ってしまった流れなどから「もう都さんはここには来ないんですか」とかそういう話に最近毎回なって、なんていうかとても大切な問題が、隠していることによって酒の肴になっていくことが、わたしはとても嫌ーーつまり酒の肴にしているのはわたし、になっていくからーーと思ったので、伝えるのだけど、
わたしは怒って彼女を切った、わけじゃないし、
絶縁、したわけじゃないです。
(彼女から音信がないのでわたしの考えのみですが)
わたしが彼女をカウンターの外に戻す理由は、単に粗相があったから、だけではなくって、ここしばらく起きてしまう問題の原因を辿ると「都がお客さんなのか従業員なのかはっきりしない」ことに起因することで、都は普通に彼女の感性で飲んでいるだけなのに「カウンターの中に入っている人としての自覚が足りない」とか、とどのつまりはそういう話に最終的にはなるんであって(人間としてのモラルや道徳観の個体差の話はちょっと置いておきます)でもわたしが思うに、
都視点で考えると「モカちゃんが大変そうだったから」手伝うつもりで、中に入ってくれたんであって(ちょっと賃金論も置いておきます)都が、
「中に入って従業員になりたい」などとと思ったことは一度もないはず、
彼女は気楽な立場でイーディに飲みに来る、いつでも「お客さんでありたかった」とはずと思うんです。
(先週の日曜日、古い友人のYURIと)
今回の出来事はいろんな複合的な視点があって大きく傷ついた人もいるので、そこの部分とは少し違う角度の視点で書いていますが
[事件そのものに焦点する権利がわたしにはないと考える]
つまり、都、の視点だけで考えると、
ただただわたしの「助けになりたい」という感情で始まったこと、そしてそこにわたしの入院、そしてコロナ、という致し方ない展開の中でいろんな線引きができぬまま「手伝い続け」「助けになり続け」てこうなってしまったことに、その是非を問われているというか、つまりこれまでの経過時間と、この事件(点)はまた別のものなのだけど、都の中ではこれまでの時間の方が帯として長く、事件は一瞬のもので、その一瞬でこのように全てが粉々になってしまい、自身も傷ついているであろうに、簡単にいうと自分が「悪者」「この一連の不穏の根源悪」ひいては「イーディを貶めている存在」とされてしまうことに、
頭ではわかっていても感情がついていかないと思うのです。
事実起きたことは都が悪いんだけど、わたしの知っている都の性格やものの考え方を反映すると、なんか思ってもない大きな落とし穴に、誰かに突き落とされたような気分にもなっているだろうと思うのです。(誰か、というのはとても抽象的な概念として使っており、人ではありません。)
だって、誰よりもイーディのために24時間を使ってくれていたから。そこの円グラフに、プライベートの時間が同じ大きさで重なっていたとしても。
だから、女主人(責任者)のわたしとしては、酒場の仕事を作家業より長くやってきた経験を踏まえた決断として都をカウンターの外に戻そうと思う、なぜなら都はお客さんでありたいんだから。(多分。まだ話せてないがわたしはそうだと思う)
この世界観で雇用し続けたらまた同じ問題が形を変えて起きるから、その方が都にとっても、救われるのではと思っています。善意だけで始めたことに「自覚が足りない」という責めを負うことは「確かに考えが甘かった」と本人が思っても、整理しきれぬ気持ちが残って苦しいからです。
また、同じ問題が起きる、というのは都を問題児扱いしているのではなくて、わたしは水商売をもう15年以上やってきて、店というもの、酒場というものを長い年月の尺で見つめ続けていて、知っているからです。このわたしに見える放物線を、同じように都が見ることは人生経験も、酒場経験[従業員としての]もわたしより圧倒的に経験がないという理由で、難しいと思います。つまり逆を返すと、隣のまさこさんには何も、詳細を話していないけれどほんの1分ほどの会話で、物事の本質を悟られるということです。それはまさこさんが長い酒場生活で同じような経験をいくつも超えてきている、という意味です。
誰からどう伝わったのかはわからないのだが、都は自分を出禁だと思っているようだけど、それもわたしの考えとは少し違っています。
ここからは完全にわたしの女主人としての責任なのですが、都がどう思おうと、都がカウンターの中に入るようになってからのお客様ーー主に1月以降のーーにとっては都はやっぱり「イーディの人」だし、木曜にきていたお客様は彼女の接客にお金を払っているのであって箱に払っているわけでないから、やっぱり「お店の人」ですよね。なのでそういう「中か外か」わからない曖昧な世界線を正すために、わたしはひと月くらい欲しいなと思っているんです。つまり都への罰ではなく、
都をお客として迎える素地を整え、そのことをお客さんや、またこの事件に関わった人に、納得してもらうために、わたしが誠意を尽くす時間です。
だから出禁というのとはある意味違います。同時に、傷ついた人のためにも、喉元過ぎればって感じですぐ店に飲みに来るんじゃなくて、少し控えてほしい、という気持ちがあります。もっと言うならわたしとの話し合いが済むまでは絶対安易に店に来て欲しくないという意味があります。
わたしはこれまでも、たくさんの人とぶつかったり、衝突したり、また、30代の頃は図らずも割とトラブルメーカーにもなったりしながら、
それでも自分が「この人とはずっと関わる」ということを貫いていくにはどうしていけばいいか模索しながら、人と「長く」「時間をかけて」絆を紡いできました。
その中でわたしが大切だと思うことは「自分がその人を大切にする」という意思を、自分にとって大切な他者にも納得し理解してもらうということです。
わたしが、わたしだけの感性で「でも都とはこれからも関わっていきたいし」って突っ走ってしまったら「あなたがそれを選ぶのは勝手だけどわたし彼女が来る日はお店行かないね」とかそういう歪みって、生じてしまう。
だから今、どういう誠意を、わたしが多方面に対して尽くすかが、何より大事だと考えています。その中で一部都が自分を置き去りにされたと感じるようなことー店から締め出すンダ!ーーとか、があっても、その真意はそうじゃないけど、それは本人と話せた時に話そうと思います。
都へ
まる1週間連絡もなくて大変心痛しています。
Lineも既読にならなかったしさらに心痛しています。
女主人と店のこと関係なく、この案件に関してはあなたからわたしに連絡をするのが筋、あなたからわたしに連絡がないというのは、あなたがわたしを切ったも同じ行動であることをわかってほしい。
まる1週間ほったらかしにされたのでわたしももうわたしの判断でこの記事を書くにいたりました。わたしには辛辣なところがあるし全然人格者じゃないから、
この記事はある意味わたしの、この1週間分の苦悩の仕返しです。事件を省いた、わたしとあなたの関係性における仕返し。
おまえさ、連絡はそっちからしてくるべきやろ、ほんでわたしからのLine無視してんじゃねえよ、っていう、目には目、的な、やつ。
都は多分、今、わたしの熱量が苦しいのだと思う。
この公開手紙も、しんどいと思う。
でもわたしは、そもそもそれを望まぬ人に自分から近づいたり、絶対にしない。
だから人と関わり、絆を紡ぐっていうことは、
いい部分だけじゃないっていうこと。
都とわたしとりさこで温泉に行ったとき「こんな風な友だちが初めてできた」と言っていたね。その質量と、今ここにあるものの質量も、同等ということ。
苦しい気持ちはわかるけど、この問題から目をそらし続けることは、
物事のいい面だけとしか向き合いたくないっていうこと。
この関係が辛かったら、ドライな状態にも戻せるからそう言ってくれたらいい。
気楽な距離感に。だけど、嫌な言い方だけども、それがどういうことかというと、次の温泉はわたしはりさこと二人でいく、ということ。
関わりあうってそういうことだとわたしは考えている。
イーディとしてのルールや正義じゃない、わたしと都の一対一の友人関係においての話である。
都がもう「ちょっとモカちゃんとは友だちやるのきつい」って思ったら、友だちやめていい、お客さんに戻ればいい。
時間が欲しかったら「少し時間をください」という1行でもいい、
連絡をするのがわたしは「誠意」だと思います。
つまりわたしはあなたから「誠意」をこの1週間ひとつももらえてないと感じているのです。
そうでないと、都の「つもり」がわからないから、動きようがないのです。
動きようがないまま、わたしはお店に立ち続けてお客さんに接し続けて、
とうとう金曜日は店に立てなくなったのです。
これを読んだたくさんの経営者の方、社長の方、何かを束ねていらっしゃる方がわたしに教えたいこと、何かわかる。
「モカコちゃん、お客さんはね、友だちじゃないんだよ。それを間違えたことが、あなたの間違いなんだよね」
そうだと思います。
わたし、間違えました。
わたし、お客さんと友だちになってしまいました。
でもよく理解したから、ここからは新しい女主人になります。
お客さんとは友だちにならない。
水商売でよく言われている暗黙のルール「お客さんと寝ない」「お客さんは友だちじゃない」「お客さんをちゃんと選ぶ」
こういうルールってわたしも当然知っているけど、わたしはお客さんと友だちになってもうまくやっていけると思っていた。
でもやっぱり、ルールがある理由がわかった。
だからもうそうしない。
これからは。
だけど去年の1年間は、わたしの人生にはとても過酷で、
わたしはその時期を一緒に過ごしてくれた人たち、りさ子や、都や、けんとやカツコにグッと気持ちが入って、そして友だちになってしまった。
仲間になってしまったのです。
感謝が愛情になって、その愛情がプライベートなものに、なりました。
才女のことも、可愛くてたまらない妹みたいに思ってしまった。
経営者として、そこがぬるかったのだろうと思う。
でももう、友だちになってしまった以上、その人たちはわたしの友だちだから、
その人たちだけは「友だち」という認識で、わたしは今日からの日々を、また新たな場所を目指して歩いて行こうと思う。
人は簡単にそう変わらないっていうけど
”Something happen, Change Something"
わたしが座右の銘としてるこの言葉を見るたびに、
「何かが起きたら人は変わらざるを得ない」って思います。
だからわたしは変わります。
店をやって変わって、9月の失恋で変わって、今年1月にも別な男の子に切られて変わって、今回のことがあって変わる。
目指す場所を変えていかなくちゃ。
信じているものが変わらないのであればこそ。
わたしはジュディマリ世代なので、ティーンの頃からYUKIちゃんの歌う、
「目指す場所はいつも変わるけれど、信じてるものはいつも変わらない」
という歌詞をずっと抱きしめて生きているんだけど、
それの歌詞の意味ってこういうことなんだなって、今回思いました。
信じているものが変わらないからこそ、目指す場所や、考え方、アプローチの仕方、言葉の紡ぎ方、を、変えていかないといけないのだ。
わたしはもう、お客さんを友だちと思わない。これから先であった人は。
それは冷たいということではなく、より大切にしていることなのだと、理解したから。友だち<お客さん なのだよね。当たり前のことを今更理解しました。
そのように大事にしていたら都をこんな風に傷つけることもなかったのです。
でも都とは友だちになれてよかったと思っています。
そしてこれからも友達でいて、時が許す時間が来たら、またりさ子と3人で温泉にいきたいと思っています。
あとはあちらの考えを聞くだけです。
彼女がどんな結論を出してもそれを受け入れようと思います、それが友達というものだから。
自分の未熟さを痛感して死にたくなった1週間でした。
どうしたらこう未熟でいられるのだろうかと、自分を恨み、憎んだ1週間です。
でも未熟な自分が憎いのなら、勇気を持って一歩、脱未熟をするしかないので。
努力したいと思います。
みなさまどうぞこれからもよろしくお願いいたします。
追記/ 「出来事」そのものに全く触れず「都とわたし」について書いていることに、どういったわたしの想いがあるかはお察しください。
そのことについては話せない代わりにこの記事を書いています。
この記事がわたしのみなさまへの誠意です。
なんとなくTwitterから都のデザインしたものが消え、RTが消え、お客さんは「何があったんだろう」と思いながら都の話題も口にできない、そういうのは違うと考えました、ここまで赤裸々でやってきたわたしと都にふさわしくないやり方だと。
<事件の関係者の皆様へ>
もし関係者でこの文章を読まれた方がいらっしゃたら不快に思う箇所があるやもしれません。案件そのものに関してはもうどの角度から見ても都が絶対的に悪いのに、カウンターと中の立ち位置の問題にすり替わってる感じかするからです。
これに関してはちょっと「事件」と「イーディとしての問題」と2つに分け、常連さんたちへの説明としてはこうなりました。
言葉は人そのものです。
遣う言葉がその人を現します。
「もしよかったら明日お店手伝おうか」と、
「明日お店手伝ってやろうか」は、
例えば同じことを指していますが目線が全然違います。
また、悪気がなくとも、傷ついた人がいて血が流れたら、その言葉を発した人は「加害者」です。その考えに変わりはありません。