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Twitterの「いいね」は刹那的すぎる。

イベント終わりで寝付けず、何の気なしにnoteを開く。
読みたい記事がある訳じゃないし、書きたいことがある訳じゃない。

何ならついさっきまで、数年に一度は必ずやっている、Twitterの「いいね」を整理していた。

3年以上前にいいねを押していたツイートを改めて読む。
何を「いい」と感じたのかがまるで分からない。その時の感性は完全に死んでしまっていることに気づく。その時の自分は確かにそれを「いい」と感じていたはずなのに、今となっては少しも分からなくなっている。

そこに生まれたのは、「がっかり」と「やっぱり」だった。

感性が死んでしまった事にがっかりし、何度も繰り返してきたがっかりに懐かしさすら覚える余裕すら出ていた。

ツイートの内容は理解できる。しかし共感(という感動)ができなくなっている。残った「いいね」は誰かの作った作品ばかりになっていた。アート寄りのものだけが濾されたということは、自分はわりと限界に近いところへ行こうとしているのかもしれない。

いや、これはちょっと大袈裟だった。

限界だとか何だとか、もうギリギリなんだけどみたいなことを言って誰かの気をひこうとしている子供みたいなことを言ってしまった。

「芸術は限界が近い人のためにあってほしい」というような「いいね」を最後に見たからかもしれない。これには今でも共感したというか、自分もそうであってほしいと願う節があった。

何かを綺麗だと思える心の余白は、最後の砦だと思う。これが失われたら最後、人は本当に壊れてしまうんじゃないかと思う。

今日のイベントでは綺麗なものをたくさん見せてもらった。早く帰りたいと思う瞬間も多々あったけれど、それでも満月の下で誰かが楽しそうにしているのを見るのは心地が良かった。果てしなく帰りたかったけど。帰りたかったというか寝たかったけど。

noteに限らず、Twitterでも何でも、「有益かどうか」で評価されることが多くなってしまった。実際に自分の「いいね」も、たぶん感動したんじゃなくて「有益だ」とか思っていいねを押したんだと思う。

自分の立場を守りたいがためにここに書くけれど、「無益」なものだって掃いて捨てるほどあっていいはずだ。

何の利益にもならないもの、誰の助けにもならないもの、それでも世界のどこかのちっぽけな人間が感じた些細な心の機微が、つらつらと書き連ねられた小さなブログがごまんとあったっていいはずだ。

「何も解決しない記事は邪魔」とどこかで聞いたが、この世のほとんどが「何も解決していない記事」だと感じている。だってその先に行動がなければ、何も解決しないのは同じじゃないか。

だからなのか、行動させるためにはどういう言い回しをするか?なんて仕事もある。それが悪いとは思わないが、せめて自分が持っている武器の魅力を洗い出してから言えよと思う。

びっくりマークでゴリ押しすれば行動するとか思うなよ、と世の中の広告を見てはひねくれたことを常々考えているのだから、そりゃあ友人も少ないわけだ。

夜中に文章を書くのはあまり良くないかもしれない。だって冷静じゃない。

今だってこんな支離滅裂なことを、指先の赴くがままに書いている。構成もクソもあったもんじゃない。

読みたい読者の想定があって、キーワードがあって、タイトルがあって、構成があって、中身があって、初めて記事になる。それがライティングの世界だと何となく思っている。っていうかそんなんばっかだ。

あなたが抱えている悩みを解決するんなら弊社のこれがいいですよ、と、いかに遠回しっぽく端的に、的確に伝えるか、それを成果に繋げるか、で頭を悩ませている技術者は多いのだろうと思う。

毎日お疲れ様です。たまには利益ガン無視で、自分の好きなものや推せるものを熱量のままに書き殴ってみたらいいんじゃないですか。そこにきっと、誰かのためになるものが潜んでいるはずです。

などと、暴走した脳みその指示で偉そうに書いてみたけれど、結局Twitterのいいねも、その集合体のような気がしてきた。だから瞬発的に「いい」と錯覚して、いいねを押し、時間が経ったら解除してしまうのかもしれない。

刹那的すぎるやろ。「刹那」がどのくらいの期間を指すのかは知らんが。
「須臾の間」よりは長いんだろうか。

これはまた今度調べることにして、これ以上書き殴ると知性も品性も疑われそうだ。寝ることにする。


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