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『響け!ユーフォニアム』日記

この日記は、アニメ『響け!ユーフォニアム』3期の開始を前に、急いで1期2期をイッキ見してどハマりしたおっさんの記録です。
普段書いている日記から、同作品について書いたところを抜粋して、テキトーに編集して、ひとつの文章にしています。
ネタバレも含みますのでご了承ください。

アニメ3期開始前

武満徹エッセイ選の中にある一節を引用したい。

言語が発達して、ことばの指示機能が先鋭になることで、(私たちが)失ってしまったものは大きいように思う。たとえば、本来そうあるべきではない音楽ですらが、知的な細分化を繰り返して、「私はどうも音楽は解りません」というような不可解なことを(私たちに)言わしめ、それがまた当然のように聞かれている。音楽は知的に理解されるだけのものではない。音楽言語ということが言われるが、これは一般的な文字や言語と同じではないだろう。音楽には、ことばのように名指ししたり選別したりする機能は無い。音楽は、人間個々の内部に浸透していって、全体(宇宙)を感じさせるもので、個人的な体験でありがながら、人間を分け隔てるものではない。

特に音楽の経験があるわけではないし、大多数の人が自分より音楽の素養がると考えると、なんとなく音楽について語るのはもちろん、音楽関連のエンタメについて語るのも気が引ける。

が、そもそも「音楽は知的に理解されるだけのものではない」のだ。(まぁ、この言葉も音楽家が言葉にするから価値があるのだけど。)
音楽のエンタメはだいたい全部好きだ。くらいの解像度でいい。ぼくが音痴ということもあり、音楽関連の物語はコンプレックスを刺激され、概ねポジティブに評価してしまっているが、それにしてもこのシリーズは際立っていい。

重要なことは、この音楽を聴いて、あるいはこのアニメを見て、どう理解するかではない。自然と笑いたくなるとか泣きそうになるとか、学校の音楽室を思い出すとか、そういう感覚の蓄積であり、この作品は強くそこに訴えてくるように思う。

『響け!ユーフォニアム』をTVアニメ版、映画版のイッキ見は1週間程度で終わった。この青春の尊い努力もゆくゆくは資本の自己増殖の歯車のひとつになっていくのだと思うと虚しくなる。なんだったら、アニメの彼女ら彼らのように仲間と努力を積み重ねた人間こそ大きな歯車となる可能性が高いわけで、そこはアニメの内容とは1ミリも関係ないのに、そんなところで感傷的になっている自分の愚かさがつらい。

しかし、いざアニメ3期がはじまると、タイムリーなぶんだけ、いくらか違って見えてくるところもある。1期、2期、OVAと映像コンテンツアプリに導かれるようにイッキ見する自分の機械的な視聴態度に対して、画面上を動くアニメのキャラクターには確かな体温がある。3期は主人公たちも3年生になり、より能動的に主導的に動いている。イッキ見じゃないぶんだけ、ぼくもいくらか機械ではない。

小説を読む

5月半ば頃より『響け!ユーフォニアム』の小説を読み始める。小説で読むと現実の女子高生として目の前に立ち上がってくる気がする。アニメーションとしてデフォルメすることで捕捉される部分も大いにあるだろうけれど、失われる想像力もあるようだ。アニメもいいが、本を手に取ってよかった。

アニメだとどのキャラクターもかわいくデザインされているから、そのなかで誰がかわいいとか、高校生になると胸が大きくなると思っていたのに貧相なままの体だとか、そういう主人公のルックスにまつわる悩みも、キャラクターデザインを区別するための都合でしかないように思える。

キャラクターはビジュアル以外のところも小説版の方がより際立っているように思う。主人公の久美子の周囲にいる3人の友だちは主人公の悩みの鏡になっていて、才色兼備の高坂麗奈は、主人公の親友でありながら羨望の的だ。久美子と違って進路や将来についてもハッキリと見据えている。その高坂を三角形の頂点に、恋愛の感情表現がストレートな加藤葉月、音楽にも人間関係にも迷いがなく率直に見える川島緑輝という3人のフォーメーションがある。加藤は吹奏楽は素人で、川島は見た目や振る舞いが幼いこともあり、久美子が2人を見下すようなことはないものの、その空気感を絶妙にはらんでいる。彼女たちを通して久美子の意識は常に自分に跳ね返ってくる。これはやっぱりアニメである前に文学だったんだと納得する。
アニメには強固な下地があったということだ。

小説は『響け!ユーフォニアム-北宇治高校吹奏楽部へようこそ』、『響け!ユーフォニアム2-北宇治高校吹奏楽部のいちばん熱い夏』(以下、2巻と呼ぶ)を読了し、今は『響け!ユーフォニアム3-北宇治高校吹奏楽部、最大の危機』を読んでいる。
2巻では、高坂麗奈というヒロインに選ばれた久美子視点の物語だということを実感する。高坂麗奈視点でも漫画やアニメとしては十分におもしろいだろうが、文学となると物足りない。やはり黄前久美子を主人公に置くことでしか描けない葛藤と成長がある。

もうひとつ、コンクールの光と影の両面を見事に物語に落とし込んでいる2巻は2年生のかつての退部騒動の謎に迫る展開がミステリー風味になっていて、他の話とはテイストが違うところもいい。
キーパーソンは部活への出戻りを望む2年生の希美。彼女の復帰にまつわる部員間の交差する思惑は、ご都合主義に陥らない範囲のぎりぎりのリアリティを保っていて、その精度がすばらしい。

横前久美子の成長譚

高校3年生で部長にもなり、成長した主人公の久美子。
その彼女の前に、新たな自意識の鏡として現れるのが、強豪校からの転校生クラスメイト、黒江真由。「高3で転校生?」という現実的なツッコミはともかく、このアニメ第3期の展開も回を追うごとに加速度的に面白くなる。

気を遣ってばかりで吹奏楽部の輪の中に積極的に入ってこず、演奏においても部内オーディションに参加せずに「ソリ」の役目を久美子に譲りたい黒江と、そんな彼女に頭を悩ませる久美子。ただ、深淵を覗くとき深淵もまたこちらを覗いているのだ。久美子があっけらかんとした明るい部長だったら、黒江ももう少し気を使わずに済んだはずだと思う。

互いに気を遣い合うからこそ、あなたの手は握れない。視聴者がどれだけ主人公の悩みを内在化しても、黒江視点にも共感せざるを得ないところがあって、やっぱり唸る。

第10話は、個人的に一番好きな話だ。オーディションの影響もあって、夏の関西大会を前に内部崩壊寸前だったところで、主人公の久美子の演奏直前のスピーチが胸を打つ。若さと真摯さがあれば、スピーチはヘタでもいい。
その大会直前に必要に迫られて、久美子があすかに会いに行く場面が好きだ。あすかは満を持して出てきたわりには、案外あっさり終わるやりとり。あっさり終わるからこそいいのだけど。
あすかは久美子に言う。「ぎりぎりにならないと動かないのはいつものことでしょ。」

続く第11話は主人公の久美子の悩みが2つ揃って解消される兆しが見える。 1つは前述の「ソリ」の役目を譲ると言う黒江真由と、あるいは「ソリ」を吹きたい自分とどう向き合うか、という悩み。もうひとつは自分の進路をどうするのか、音大に行くか。 前者の悩みに明かりを灯すのは同じユーフォニアムを弾く後輩の久石奏。後者の悩みに答えをくれるのは、音大に進学した先輩の鎧塚みぞれ。その2人によるそれぞれの言葉は彼女らの資質によるところではなく、久美子が真摯に人間関係を築いてきたことの結果である。

そして、最後のオーディションで久美子が黒江真由に負けたアニメ改変はかなり批判の的になっているようだが、個人的にはこの改変は然るべき改変だった。エンタメとしては、主人公がもう一回「ソリ」に復活してちゃんちゃんでもいいんだけど、物語としてはアニメ版の展開の方が美しい。
おそらく、その悩みは原作を書く時点でもあって迷ったうえで、前者を選択したのではないかと思う。

最終話は部員全員の名前が分かるのもおもしろい。オーソドックスな名前から「素手辺きつね」まで、なかなか豊かな名前のバリエーションになっている。にしても、きつねって(笑)。

個人的にアニメ改変以上に気になるのが、最後の久美子が教師になっているシーン。

20代の女性が、果たして滝昇同様に学校に閉じこもって、平日の仕事終わりも休日も部活漬けでいいのか、ということ。
いや、20代男性でも30代男性でももちろん問題で、危うくジェンダー論やエイジズムの沼に足をつっこみそうになったが、滝先生の場合は配偶者を早くに喪っていて、久美子の高校3年間は滝先生にとっての回復の物語でもある。働き方にいかに問題があろうとも、必要だった時間と言える。
が、先生になった久美子は同じように部活の指導にあたるべきではない。もしそのように久美子先生が働いているとしたら、それは滝先生の教育の失敗である。せめて、休日の練習は滝先生の日と久美子の日で分業制であることを祈りたい。

滝先生はいい先生だけど、よく考えたらぼくより年下なんだろうな。そんなアニメキャラの年齢まで気にしてしまっている自分の虚しさと言ったら、これ以上のことはそうそうない。

あと、そんないい先生ばかりならいいけれど、現実のいい先生は国や自治体や保護者から教育の時間や手段を奪われて心を痛めているし、クソみたいな先生の方が残り続ける。勝手に頭の中に自動生成される地獄絵図がかなしい。

これ以上横道に逸れないように、もう締め括りたい。
アニメの熱量と勢いで、小説もはやく全部読もうと思ってたけど、短編集やスピンオフを含めるとシリーズがものすごく多い。多いということは、アニメが最終回を迎えても、ぼくは沼にハマったままでいられるということ。
しばらくは安心だ。

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