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「天岩戸神話」について思うこと。
今週の週刊少年ジャンプ「ONEPIECE」で天岩戸(あまのいわと)が名称として取り上げられていた。ONEPIECEワノ国編は様々な日本の神話、昔話、歌舞伎の演目、落語などなどをふんだんに配置していて読んでいて飽きさせない。これまでのエピソードと比較しても比べものにならない。加えてこの時代の日本とリンクしているストーリー展開は秀逸で、本当に尾田先生が天才すぎるとしか言いようがない。
メッセージは「開国せよ」だ。
読んでない人、読むのを止めてしまった人は是非読んで欲しいと心から思う。
・・・このまま行くとONEPIECEの話になってしまう(笑)
さてさて、本編で登場した「天岩戸」は名称だけでモチーフとまでは活用はされていなかった。
自分にとって「天岩戸」はかなり大切な物語なので、思い出したこのタイミングでnoteで書き綴っておきたい。
まず目線合わせのため、「天岩戸伝説」の筋書きをおさらい。
宮崎の天岩戸神社のサイトが分かりやすかったので引用する。
(https://amanoiwato-jinja.jp/publics/index/8/より)
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神代の昔、空の上に高天原という神々の世界がありました。
太陽の神天照大御神(アマテラスオオミカミ)様や弟の須佐之男命(スサノヲミコト)様、その他多くの神々が暮らしていました。
須佐之男命様は、田んぼの畦を壊したり馬の皮を逆剥ぎにしたりと、大変な暴れん坊でした。
あまりにひどいいたずらにお怒りになりました天照大御神様は天岩戸と呼ばれる洞窟にお隠れになりました。
太陽の神様がお隠れになると世の中は、真っ暗になりました。食べ物が育たなくなったり、病気になったりと大変なことが次々と起こります。
困りました八百万の神々は天安河原にお集まりになられ、御相談かわされます。御相談の結果天岩戸の前で色々な事が試されて行きます。
まず、長鳴鳥(ながなきどり)を鳴かせてみます。
しかし、天岩戸の扉は開かず失敗しました。
次に、天鈿女命(アメノウズメノミコト)様が招霊の木の枝を手に持ち舞をされ其の回りでほかの神々で騒ぎ立てます。
すると、天岩戸の中の天照大御神様は
「太陽の神である自分が隠れて居るから外は真っ暗で、みんな困って居るはずなのに、外ではみんな楽しそうに騒いでいる。これはどうした事か?」と不思議に思われて天岩戸の扉を少し開けて外を御覧になられます。
神々は、騒いでいる理由を伝えます。
「あなた様より美しく立派な神がおいでになりました。」
「お連れ致します。」と言い鏡で天照大御神様の顔を写しました。
自分の顔だと分からなかった天照大御神様は、もう少しよく見てみようと扉を開いて体を乗り出しました。
その時、思兼神(オモイカネノカミ)様が天照大御神様の手を引き、岩の扉を手力男命(タヂカラヲノミコト)様が開け放ちまして天照大御神様に天岩戸から出て頂くことが出来ました。
そして、世の中が再び明るく平和な時代に戻ったと言われます。
暴れた須佐之男命様は、その後反省し、天岩戸の里をはなれ出雲國に行かれ、八俣大蛇退治をされます。
おそらくどこかで聞いたことはあるのではないかと想像する。
その上で、この神話が自分にとって大事なのかを次に書いていきたい。
天照大御神が天岩戸に隠れると世界は闇に包まれた。
天岩戸は神話なので多くの学識のある方々が読み解く荘厳なテーマがあると思う。が、自分のなかでは勝手に読み替えて解釈している。
それは、
天照大御神が天岩戸に隠れる=現代の人が家の中(自分の中)に引きこもる
という構図だ。
天照大御神を現代の人、普通の人と捉える。
その人が家の中(自分の中)に引きこもると世界は闇に包まれる。
それは、外の世界に対して目を閉じるということ。
もしくは順序に逆になるけれど、(勝手に)「世界は闇だ」と捉えてしまって洞窟の中に潜むことにしたのかもしれない。
つまり世界が物理的に闇に包まれたというわけではなくて、その洞窟の中に潜むと決めた人にとっては世界は闇に閉ざされたという状況になる。
自分だけの洞窟。
その中に籠れば安全は確保される。
でも話し相手もいない。
身を躍らす愉快なことも発生しない分、自分が傷つくこともない。
人生に意味があるのかは知らないけど、せっかく生きているのだから楽しく過ごした方がいい。
神話では、その後、洞窟の外でアメノウズメの舞に皆が笑っている声を聞いて、アマテラスが外がどうなっているのかが気にしてしまう形で展開する。
これを現代に置き換えると、「洞窟に潜むこと」から「外に出てくること」となる。洞窟の中にいるよりも外の方が楽しそうなのか気にしてしまう。
洞窟の中から外に出てくる物語として考えられるのかと思うのだ。
ただ、一点、「洞窟に潜むこと」と「外に出てくること」、これらに選択の余地はないのか、という点は留意しておきたい。
それぞれの生き方である。「外に出てくること」ばかりが良いことなのか。
ここに関しては、題字に書いた通り「人生に意味があるのかは知らないけど、せっかく生きているのだから楽しく過ごした方がいい」ということを自分の解としたい。
もちろん人それぞれの楽しさがあるので、それぞれの人の考えを否定することはできない。ただ、一人で変化のない毎日を送るよりも、「外に出てくること」の方が楽しくなることが多いだろう。
天照大御神が天岩戸に出て世界は光に包まれた = 現代の人が家の中(自分の中)から外に出て来たことによって自分の世界は光に包まれた
自分の世界が明るくなること。
それは自分の目の前に楽しい情景が広がること。
「楽しく暮らす人を増やす」とは洞窟の外で楽しく舞い、大笑いをすること
弊社合同会社ハハハで会社の目的として掲げている「楽しく暮らす人を増やす」ことは、すなわち、洞窟の外で楽しく舞い、大笑いをすることに当たる。
洞窟の中に潜む人が皆出てくるかは分からないけれど、1人でも出てきてくれることがあれば外は更に楽しくなるはずだと想像している。
舞い、大笑いをすることは「祭り」だ。
「祭り」はみんなで参加して楽しむもの。そこに生じる参加感。であるならば、できるだけ参加する人が増えて楽しんだ方がいいのではないかとシンプルに思う。
せっかく生を受けてこの世界にいるのだから、楽しまないと損。
あれこれやりながら楽しんでいけたらいい。
何かやろうとしても、やろうとしなくても同様に老い、死に向かうのであれば、いま・ここを満喫する方がいいなと。
そうやって舞い、大笑いをし続け、自分たちの毎日を謳歌する中で、誰かがすっと岩戸を開けて外を覗き見てくれたらいいなーと考えてる。
合同会社ハハハはそんなことをやっている会社であれたらいい。
んー、なんだか伝わりにくい話を書いている気がしてきた。
「天岩戸神話」を勝手に解釈して捉えているよということだけ分かってもらえたら嬉しいかぎり。
もっと舞い、大笑いをしていきたい。
(それは博打をすることではなく)
楽しく暮らすためのサジェスト
「もっと舞い、大笑いをする」