「note」で自分の書いた文章を、読みたい人に買ってもらえるようにしたい、と決めた理由 by モブ・ノリオ
今日は、2025年の2月7日で、自分の祖母の誕生日にあたる。
この「note」のような、自作テキスト公開ネットサーヴィス――あるいは「メディア」になるのか? それとも「サーヴィス」か「メディア」かを区別しようとする行為自体が、今やナンセンスなのだろうか?――の場に登録するのは、初めての経験だ。「note」での執筆・発表・販売を現実的に考え出したのは、まだ数日前のことに過ぎず、数十分前に自分のアカウントをようやく登録してから、そのままこの文章を書き始めている。
粗くとも、まずは必ず、今日中に公開したい、そして明日は明日の原稿を書くぞ、という気持ちを萎えさせないためには、自分が苦手な"スピード感"こそ、こういう場では、とても重要だとつくづく思う。
実は、先月の中旬ごろから、メルカリで、自分が二十一年前に受賞した芥川龍之介賞の正賞の銀製懐中時計を、"非・日常的"な価格で出品している。
その出品/販売の過程で気づいたことや面白く感じたことについて、日記のようなものをつけたい、そしてもちろん、有料で販売・公表したい、と思うようになった。
また、それとは別に、書きたいことがたくさんあるうちの幾つかを、元々は、小説やエッセイなどのいわゆる純文学的な作品を集めて出版される"文芸誌"での発表以外を想定したことがなかったものでも、もしかすると、書きたい事柄によっては、この「note」のようなネット上の媒体の方が、適しているものがあるのかもしれない、と考えるようになった。
しかし、とにかく、どれも実際にやってみようとしないと、「何が失敗だったのか?」「どうすれば、よりよく伝えられるのか?」さえも、わからないままになってしまう。
だから、今日からはじめます。
そして、どこまで伝えられるのか、わからないけれど、今まで入ったことのない畑で、これまでのように、その都度、自分の好きなタネを撒いて育てるだけなので、不安なこともまったくなく、ただ、まじめに撒き続けさえすれば、それがどんな花を咲かせてくれるかは、おのずと明らかになるわけだから、花の香りを嗅ぐのを楽しみにして、できるだけたくさん撒き続けたい。
直接、パソコンの画面上の、《自分の目の前に現れる文章=原稿》そのものが、読んでくれる人が読む文章の完成形になる、という経験も、お金を払って読んでもらう文章としては、初めてになる。
また、私は、電子書籍を極度に忌避してきた書き手でもある。
それが、最近になって、様々なこだわりが自然にほぐれて、「何を最優先させるか」が自分にとって、ようやくはっきりしてきて、遅すぎるほどだが、遂に「時が来た」という気がしている。
「note」に発表すれば、かつてのように、文芸誌や新聞を買う習慣のない身近な人たちに、自分の寄稿した掲載メディアの原稿をコピーして、わざわざ手渡したりする必要もなくなる。(読んでもらいたかったから、そんなことをしていた。大事なことを書いている、という自負ももちろんあってのことだった。しかし、今では、「あれは、意味があったのだろうか?」とも疑問にも思う。無駄な行為だったのかもしれないけれど、当時はそうせずにはいられなかった。)
ただ、そんな行為を、もう今後は、自分からやらなくなるだろう。金を払ってまで読みたくはない、という人は、パソコンやスマホがあっても、読まないだろうから。
大事だ、と思うこと、どんどん書いていきたい。新聞や雑誌に書いてきたようなことも、別に、どこにでも書けるわけだから。そして、こちらはこちらで(ネットに繋がったパソコン上での、文章発表の現場で)、進んで行かなければ、という気持ちでいる。「これは、文芸誌に発表したい」という文章は、それはそれで、その都度振り分ければいいことだし。
ともかく、「note」でのそれぞれ原稿も、その都度、真剣に書いて、これまでの自分の書き物と同じく、自分が書きたいもの、読んでもらいたいものを書いて行こうと思っているところです。