
たしかにJGPって分かりにくい
mcckyさんに自分のnoteを引用していただいた。
恐縮です。うれしいです。
mcckyさんのnoteのなかにもありましたが、JGPというのは確かにわかりにくいですよね。
さて、MMTの議論のなかに頻出するJGP。そもそも、なぜそういう考え方になるのかというのを自分の解釈を織り交ぜて、簡単に書いてみようと思います。
考え方というよりも、ひとつの側面としてとらえてもらえたらと思います。
ちなみに自分は全然MMTに詳しくないので、詳しく知りたい方は
リッキーさんのブログや望月慎さん、nyunさんのnoteを見てみてください。
えーと、JGPとはJob Gurantee ProgramといってMMTの政策の柱みたいなものです。
政府による雇用保障です。
要するに失業しても、政府が失業者全員雇いますよっていう政策です。
JGPについては過去に書いたこちらのnoteを参考までに。
で、まずなんですが、
MMTのオリジネイターであるウォーレン・モズラーさんの著書である
ソフトカレンシーエコノミクスのイタリアのくだりが終わった後の本編の冒頭にこんなことが書かれています。
『たとえば、何千人もの若い男性と女性が軍隊に徴兵された場合、国はより強力な軍事力の恩恵を受けることになります。
しかし、新兵が住宅建設業者だったとしたら、国は新築住宅の不足に苦しむかもしれない。
アメリカ人が追加の軍事的保護よりも新しい家に大きな価値を置くならば、このトレードオフは国の一般的な福祉を減らすかもしれません。
ただし、新しい軍事要員が住宅建設業者からではなく、失業者から来ている場合、トレードオフはありません。
兵役のために住宅建設業者を徴兵する実際の費用は高い(新築住宅が不足するから)のです。』
失業者を雇用するための実際の費用はごくわずかです。
政治的プロセスの本質は、限られた資源と無制限の欲求の世界で私たちが直面する固有のトレードオフと一致しつつあります。
人々が余剰の商品やサービスを奪うことで生活を改善できるという考えは、常識と立派な経済理論の両方と矛盾しています。
今日の米国のように失業中の資源が広まっている場合、トレードオフのコストは最小限であることがよくありますが、誤って手が届かないと見なされます。
これは別に失業者を雇うのは低コストだから、率先して前線に送りこめばいいと言っているわけではないと思います。(さすがに)
つまり、こういうことです。
政府はいくらでも貨幣を発行して支出できる。(貨幣は無限だから、政府に貨幣的制約はない)
しかし、人的資源は有限である。(人的資源に限らず)
たとえば、完全雇用の経済下(限りなく非自発的失業者の少ない)で介護士が不足していたとします。
介護士を増やそうと、政府が民間雇用の平均以上の賃金で直接雇用したとします。そうすれば、介護士の職に就きたい人が増えるかもしれませんし、おそらく今より介護士は増えるでしょう。
しかし、同時に平均以下の賃金で働いていた民間雇用の労働者がその分政府雇用に流れることになるでしょう。
すると、今度はそこで人手不足が起きかねないわけです。
政府が資金不足に陥っていて、これ以上の支出はできないといった問題は現実には起こっておらず、こういった実資源のトレードオフについてこそが本当に考えなければならない問題ということです。
仕事のための労働力をどう確保するのか、またはその労働力を確保、及びその仕事を実行したことでのトレードオフなどなど。
(考えられるかどうかはおいといて。)
こういった考え方がMMTの基盤にあると自分は認識しています。
JGPの背景についてですが、アメリカの完全雇用状態とは失業率5%くらいのことをいいます。(MMTというのは元来アメリカで生まれたものですから、アメリカの経済で説明しますね)
この5%付近の失業率を自然失業率(NAIRU)といって政府や主流派経済学者によってそう決められているんです。
つまり、この5%にあたる1000万人以上の人たちは米国では民間には決して雇われることはありませんし、また、雇われたとしても、景気が悪くなれば真っ先に首を切られる人たちでもあります。(最近、某メンタリストの方が炎上してましたね。)
アメリカのMMTerたちはこの5%の人たちに政府が仕事を与えるべきだとしています。たとえば、それは環境保護の仕事(グリーンニューディール)や、公共設備のメンテナンス、老人への食事の配達、公園の美化、パンフレット作成などなどです。
政府が直接お金を渡すよりも、働いてもらったほうが、社会に実益をもたらすし、本人のマインド的にもいいでしょということです。
ミンスキー的にいうと、失業に起因する貧困を減らすことができるですね。(ちなみにMMTはBIに否定的なんですけど、その話は割愛)
余談ですが、JGPの最初の提唱者はMMTerらに影響を与えたハイマンミンスキーだという認識なのですが、ミンスキーはJGPを実施するにあたり、今の中央政府に、かつてのニューディールを完遂させた役人達と同等の裁量、能力を持つ役人がいるだろうかという懸念があったみたいですね。
MMTではミンスキーと違って、中央政府ではなく、地方政府規模で行うべきとしていますが、お金は中央政府で。
で、このJGPですが、主流派経済学的にはあり得ないんですね。
というのも、失業者が少なくなっちゃうとやばいくらいのインフレになると考えられているからなんです。
グレゴリーマンキューさんのマクロ経済の教科書でも最初のほうにでかでかと書かれています。
インフレと失業はトレードオフである。つまり、どちらかしか選べない。
インフレか失業なら、失業のほうがマシだろうというわけです。だから、失業者はいて当然だろう。(某メンタリストみたいだな)
で、MMTはこのインフレと失業はトレードオフである論に否定的※なんですね。(あと価格は需要と供給の均衡点というやつにも)
※とはいえ、政府がJGPを実施すれば、介護士のくだりの延長で政府雇用と民間雇用が競う形になり、一時的なインフレになる可能性はあるとしていたはず。
だから、MMTは主流派経済学とするどく対立しているんですね。(理由の一つに過ぎないけど)
まず、インフレと失業がトレードオフであるならば、スタグフレーションの説明がつかないですし。
マンキューの教科書とかのフィリップスカーブのグラフでは、1960年代前半のインフレ率と失業率だけを抽出してみると、たしかにそういうふうに推移しているけど、だからといってインフレと雇用が絶対的な相関関係にあるのかというと、そういうわけでもないんでないの?(1970年代のグラフは無茶苦茶だし。同じオイルショックの影響でもアメリカと日本でグラフは全く違う動きをしてるし、自分なんかからするとこの70年代の両者のフィリップスカーブこそ、フィリップスカーブへの反証にしか見えない))
というわけです。
MMTerたちというのは、そんなありもしない、ほんとかどうかもわからない主流派経済学の理論やそれに沿った政策なんて、真に受けるべきではない。
『疑え』ということなんですね。
そして、人間の人生や生活を景気変動に従属させるべきではないと考えているんですね。
そのために政府が景気変動の緩衝材の役割を果たすべき。(そのひとつがJGPであり、社会保障などなど)
実際に世界大恐慌の頃に比べると、現代の政府の規模、役割ともに当時よりもはるかに大きく、そのことが00年代末に起きた世界金融危機のダメージを小さいものにした。(良くも悪くも)
だから、この先、景気変動、または恐慌などがあっても(というか、人間がやっているんだから、この先も好景気も不景気、なんなら恐慌や金融崩壊もあるだろう)、人々がそこまで困らない社会やシステムを作っていくべきだというのがMMTerの主張だというのが自分の理解ですね。
とりあえず、こんな感じです。