生物学的死と精神的死についての考察
バイクに乗る。
バイクで風を感じていると強烈な死の匂いが漂ってくる瞬間がある。
どれだけ気を付けて走っていても、事故に遭うかどうか、怪我の程度については運次第なのかもしれない。
幸い今まで僕が経験した事故では身体へのダメージは大きくはなかった。だが次もそうとは限らない。
ヘルメットを正しく被り、身体にプロテクターを巻き付けてもなお、当たり所によっては死は避けられないし、四肢のどれかを失う可能性は常にそこに横たわり続ける。
亡くなったライダーも何人か知っている。
死神がすぐそこに居る場であるからこそ、強烈なまでに生を渇望する。
ふと思う。定量的でない哲学にも近い考え方ではあるが、
思い出されない存在となってしまう事と命を落とすこと。
はたしてどちらを以って死と考えるのか。と。
亡くなったライダーの事を思い出す。
彼または彼女は人々の記憶に残り続けている。少なくとも今は。
だが記憶に残す人がいなくなったら?
忘れることも供養と言われることもあるが、忘れようと努める事は違う。
人の魂の重さは21グラムだという。
この科学的証明はなされていないが、幾つかの物語、とりわけSFで使われることの多い数字だと思う。
もし本当に人の意識、魂と呼ばれるものに重さがあるのだとしたら。
生物学的死と同時に減少すると言われるその21グラムはどこへ行くのか。
実際に魂に重さがあるのかどうかはおそらく、
意識や記憶について考える事になり、それらは脳内をめぐる電気信号、情報に重さがあるのかどうかという事になると思う。
これに最終的な科学的結論を与えるとしたらその学問はおそらく熱力学であるのだろうが、最終的な証明は何世紀も先のことになるのだろう。
人がもし二度死ぬのであれば、
一度目は生物学的死を迎えた時。
二度目はその人の記憶を持つ人がいなくなった時なんだと思う。
二度目の時に21グラムの体重を失うのかもしれない。